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新メンバー

実はAMP部に異動となったとき、目黒さんチームは新しい名称になり、新しいメンバーになった。

目黒さんのチームが抱えていた仕事は大きく分けると3つ。
1 読者窓口関係 相談窓口としての読者ホットラインの運営と報告
2 アンケート分析 アンケートをデータ化し(入力)、集計して関係各所に報告する
3 その他の読者関係業務 編集部のおけいこイベントや座談会などの運営

このうち、1の読者窓口関係は異動の際に総務部の管轄となり、目黒さんの手を離れた。
2と3は目黒さんと共に、AMP部に移管された。

さらに、異動の少し前から、目黒さんには4番目の業務が託されていた。
読者モニター「ハッピーメイト」さんの管理だ。

どの雑誌も、女性向けサイトなども、読者モニターを大量に抱えてさまざまに展開する時代になっていた。
ハッピーライフでもそういったことをすべきではないかという声が出ていた。

ハッピーでも読者モニター制度を作ろうということになったが、はっきりいってどうしていいか分からない。一から・・・・・・というか、ゼロからスタートだ。
募集・選考・管理をするといっても、事務作業は煩雑で、誰もやり手がない。
――そんなときは、手の空いている暇な人に持ち込まれる。または、社内の地位や暗黙の力関係などから、断れる力のない人。
――で、それが目黒さんだった。

4 読者モニター ハッピーメイトの運営・管理

そしてこれが多少は軌道に乗り始めたので、それもあっての移動・移管だったと思う。
読者モニターさんの仕事は、記事に登場するだけではない。
広告を出してくれる企業さんの製品を体験したり、広告とタイアップした記事に登場して華を添えたりもする。むしろ通常の記事より、こちらの出番のほうがよほど多い。

このハッピーメイトに関して、AMP部の窓口は八丈さんという女性だった。
AMP部の人たちは忙しい。いちいち目黒さんと悠長な打ち合わせなどしている暇がない。ということで、八丈さんに伝えて、八丈さんが目黒さんとの折衝に当たるという仕組みだ。

目黒さんのチームが、わたしと葛飾さんだけ引き連れられてAMPに異動したとき、八丈さんは目黒さんのチームに配属された。別れている必要がなくなったので、合体したのだ。

AMP部のトップ港さんは、バリバリキャリアウーマン。利益を確保することには容赦がない。
ハッピーメイト業務を引き取ったのは、お金になるという見込みがあったからだ。
でもほかの業務についても、せっかく自分の下に入ったのだから、大いに成長させたい。

アンケートは細々と行うのではなく、せっかく大量のネット登録者も抱えているのだから、広告を出してくれる企業のためにもアンケートを行えるようにしよう。
――これは多くの会社がやっている。特にネットサイトなど、商品を使った感想を述べさせたりしている。
それに、内職のつもりでわたしもある会社のネットモニターに登録したことがあるのだが、特定の製品を買いそうな年代や職業の人の動向という意味で、さまざまなことを聞くアンケートがあった。特定の製品に対する感想だけでなく、いろいろなアンケートがあるのだ。

これまでの「アンケートを次の雑誌編集に活かそう」という目的だけでなく、「アンケート調査を収益につなげよう」という大切な目的が追加されたのだった。
これは、紙媒体が衰退を見せている時代には、大切な収益源になり得る。

というわけで、八丈さんだけでなく、青ヶ島さんという人が追加されて入ってきた。
八丈さんも青ヶ島さんも社員だ。
これまで目黒さん以外は、オールアルバイトと派遣。中野さんがいたときでさえ、中野さんは契約社員であり、正社員ではなかった。
それが一気に2人の「社員の部下」持ちだ。目黒さんの人生の「逆転」となった時――ターニングポイントだ。

目黒さん(管理職社員)、八丈さん(社員)、青ヶ島さん(社員)、葛飾さん(アルバイト)、わたし(派遣)。
これが新しいチームのメンバーだった・・・・・・


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気持ちのバランス

自分にとってこのタイミングで契約終了を告げられたことは、決して悪いことではなかった。
むしろ良いことだった。

いい機会だから最大限に利用しよう。

・・・・・・そう思っているのに、そのあとに取った長い休みの間、なんともいえないネガティブな気持ちが沸き起こって苦労した。

長い休みをなぜ取ったかというと、第一に仕事が終わったからだ。
第二に、辞めるとなったら有休消化のことを考えるからだ。

わたしが所属した派遣会社の場合、有休の量は「前年度の出勤日数を計算式に当てはめて決める」。
これはもう捨てていた。そのためになるべくたくさんの日数を出ようといっても、無理だからだ。
そして1日当たりの有給休暇の額は、「前月の出勤時間数÷出勤日数」で決まることになっていた。
つまり、「1日4時間ずつ、25日間出勤した場合」のほうが、「1日8時間、1日だけ出勤した場合」より断然少ないのだ。半分になってしまう。
わたしのように午後から出勤することが多い場合は、有休を取れる月が限られているのである。

幸い、まだこの月は2回しか午後から出勤していなかった。
これ以上は1日たりとも午後から出勤はできない。
仕事も終わっていたことだし、次の仕事は翌月(つまり最後の出勤月)から開始することにした。

そうして休んでいる間、なんともいえない気持ちに襲われては振り払う。
振り払ってもまた襲われる、というのを繰り返した。

最初の数日間、第一の職場にもどこにも行かなかったときは、このネガティブな感情を抑えるのが難しかった。
どうして頭ではちょうどよかったと思っているのに、感情はネガティブになるのか?

やがて第一の職場が始まり、午前中だけでも出かけているとだいぶ気がまぎれた。

そんなある日、わたしはあるドラマを見ていた。
ずっと昔、まだクリーニング店員時代に好きだったアメリカドラマだった。

シーズン1、ヒロインがあるいい男とデートし始める。
ステディな関係になるかも。

――でもどうも違うと思えてきた。
ヒロインは彼に断ろうと考える。でも言い出せない。
彼のほうは、何度も電話をしてきたりする。ヒロインは電話も会うことも避けている。

ついに彼は、ヒロインの職場にやってきた。(アメリカなので、その辺はかなりオープン。)
ヒロインは「今日の夜会って、ゆっくり話しましょう」とその場をごまかす。今日の夜こそは「やっぱりあなたとは無理」って言おうとして。
でもきっとなんだかんだで言えないんだろうな、と予想できる。

彼は引き下がらず、「待ってくれ、本当にすぐに済むから」
「だからそれは、今夜――」「君とは終わりにしたい」
固まるヒロインに、彼は「本当にすぐに済んだだろ?」
「ええ、そうね・・・・・・」 ヒロインのイメージではゴミ収集車の荷台から落とされたようなもの。

切ろうとしてた。でも言いにくくて悩んでた。
それが相手から言い出してくれて、自分は嫌な思いをせずに終わることができた。

――でも。気持ちはというと、ショック、捨てられたよう、ガーン!

先に言われると、なんか、ね。
今さら「良かったわ、私もあなたとは合わないと思っていたの。ちょうど終わりにしましょうって言おうと思ってたんだけど、なかなか言い出せなかったのよ。ちょうど良かったわ」って、言う?
言っても信じない。強がりを言っているだけと思われそう。

相手から先に言われたことがショックなのだ。どうせ終わりにしたいと思っていたことでも。ちょうどよくて、こちらも面倒を回避できてよかったとしても。

なんだか、ストンと腑に落ちた。

そうか、こういうことか。

不思議なことに、自分の気持ちに説明がついたら、ネガティブな気持ちはなくなった。
自然に気にしなくなったのだった・・・・・・



ついに退職へ

ある日、いつものように派遣会社からの連絡が入った。
「契約について、お返事がありましたので、面談をいたしたく――云々」

この時点で、ちょっと「ん?」と思った。

普通は「次の契約もお願いしたいというお話がありましたので」という言い方で、できるかどうかを聞いてきた。
この担当の人もそうだし、前の担当の人もそうだった。その前もその前もそうだった。

もしかしたら――という思いはあった。
なんとなく信じられなくもあったけれど、おかしいなという思いはあった。

なので、いざ面談に行って「組織改編に伴い、今まで○○さんにお願いしてきた業務がなくなるということで、契約を終了したいというお話がありました」と切り出されても、それほど驚かなかった。
そりゃ、これまでずーっと「次の3ヶ月もお願いしたいと・・・・・・」と言われ続けてきたので、違和感はあった。でも不意をつかれたような気はしなかった。

それともそれは、強がりなのかな?

わたしは「分かりました」と普通に答えたつもりだけれど、動揺しているように見えたろうか?

派遣の営業担当は、そこで瑞穂さんに連絡した。「今、終わりましたので」
瑞穂さんは人事部の人で、これまでずっと派遣のことに関しては瑞穂さんを通してきていた。わたしも他の人もそうだ。

しばらく待っていると、瑞穂さんと目黒さんと稲城さんが入ってきた。
稲城さんは目黒さんの上司に当たる。

瑞穂さんが「長く働いてくださった○○さんだから、稲城さんもぜひ同席したいとのことで」と説明してくれた。
礼は尽くしてくれたってことなんだな、と納得した。

目黒さんは「○○さんには、本当に長くいてもらって・・・・・・」とちょっと涙声になっていたけれど、これはなんていうか、シチュエーションに流されたというか、シチュエーションの予想に流されただけだと思う。
わたしが別に普通だったので、あっという間に戻っていたし、別に涙は流れていなかった。
ほんのすこーし、涙声らしいものになっていただけだ。
これは、目黒さんの女優気質によるものだと思う。それほどわたしが好かれていたり、頼りにされていたわけではない。
というか、こういう場面で本当に悲しくなってくれる上司社員なんて、皆無に近いはず。

たぶん、ちょっとせいせいしていたんじゃないかな。
長くいて腐れ縁になっているだけに扱いにくいところがあったろうし、毎日いないし、他の仕事を頼みたくても限られた業務だけで手いっぱいだし。

わたしは契約終了と言われた時から、明るく辞めていこうと思っていた。
絶対に泣いたり、感傷的な場面を演じたりしない。

言われたときから自分の心の中では、これでよかったのかもしれないと思っていた。
どうせ来年度は分からないと思っていた。
来年度もし、フルタイムで働くようなことになれば、もう自由に休みを取ることなどできないとも思っていた。だからその次の年は1年くらい充電期間にしようか――いやいや、それでは就職先など見つからなくなる。間は空けないようにしなくては――と迷っていた。
そうしたら棚ぼたで充電期間が半年できたわけだ。これからの半年は、第一の職場しかなくなるわけだから。

そうだ、時期的にも今でよかったんだ。

どちらにしてもあと2年がタイムリミットだったのだし。

わたしは席に戻って、とりあえず普通に働いた。
仕事の合間に要らないものを片づけ始めた。
要らないものというのは、辞めるとなったらこれほどたくさんは必要ない輪ゴムとか、そういったものだ。
もともといつ辞めてもいいように片づけていたし、席替えを恐れて物を増やさないようにしていたのだから。

「それは落ち着いていたのじゃなくて、ショック状態だったのよ」と言う人もいるかもしれないけれど、自分では本当に、それほどの衝撃ではなかったと思っている・・・・・・


Open-PC講師-

--PC講師編、始まります--

職種としては「OAインストラクター」です。
ですから前の章の続きとも言えます。

前の章ではあちこちで講習をし、この章では一個所に所属して講習をします。
同じ職であっても違う発見がありました。

この職場では「インストラクター」という言い方はせず、「講師」と呼ばれていました。
ですので職業名は「PC講師」で進めていきたいと思います。

たぶんこれが最後の章になると思います。

もう今はこれしか言葉がありません。
――どうか楽しんでいただけますように。

おことわり

この章では「障害」「障害者」という単語が多く出てきます。
障害のある方々のための仕事だったからです。

昨今「障がい」「障碍」とすべきとの議論も耳にしますが、とりあえず「障害」という表記に統一するつもりです。
ご了承ください。

また、内容については、素人の目から見た現場というものですので、専門知識に欠けているところが多々あると思われます。
「素人ってこういう捉え方をするのか」くらいに見ていただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。

それから仮名についてですが・・・・・・

出版社見聞録の章も仮名を用いましたが、この章でも抽象的な「××さん」ではなく仮名を使います。
自分のみ「○○さん」です。
登場人物が多くなる予定なので、前の章と同じように、登場人物表を作成しておきます。

人物だけでなく、団体等の名称も仮称です。
組織情報や個人情報なども、当然フィクションです。。

――全部、フィクションです。

重要なところは体験の内容だと思っているので、根本が伝わればよしとし、詳細はフィクションにしています。

なので今回も最初に言っておきます。
この章に出てくる人物・団体等の名称、その他ある種の情報はフィクションです・・・・・・

●Prologue

●Prologue


反応、二通り――わたしの反応は

「障害者の方のための施設で、パソコンを教える仕事をしているんです」

そう言うと、反応は2つに分かれる。
 ・「へぇ」「ふぅん」と普通に会話が流れる場合
 ・少しばかり重い感情が返ってくる場合

普通に会話が流れる場合というのは、まったく普通。
「会計事務所で事務をやってるの」とか「出版社でアンケート入力をしてるの」なんて言ったときと変わらない。
興味を示されるとしても、普通の興味。
「会計事務所って何人くらいいるものなの?」「出版社って雑然としてるって言うよね」なんていうのと同じ。
「そういうところがあるのね~」「どんな障害の人が来るの?」、またはもっと一般的な通勤時間や時間帯についての質問とか。

「パソコン、教えられるくらい知ってるんだ~」と、そっちに反応する人もいる。
その場合は、「いや、あの、そんなこともないんですよ・・・」と、過大評価に焦ることになる。

少しばかり重い感情が返ってくる場合というのは、たとえば『感動』とか『感心』とか。
「前にテレビで***の障害のある人のドキュメンタリーをやっていてね、すごく前向きで感動したの。障害だと思いたくない、個性と思っているって言っていてね――」と語られたこともある。

「同じ会社に精神的な病気らしい人が雇われていると知ったんだけど、何するか分からない気がして、怖くて近寄れない」と聞かされたこともある。
感動ばかりじゃなくて、そういうことを感じる人だっている。

実はわたしも、最初にこの仕事の話をもらったときは、少し重い感情を抱いていた。

頑張りたい。やりがいのある仕事だ。少しでも、障害者の方のお役に立てれば。

そういう気持ちが悪いとは思わないけれど、後からわたしは感じたのだ。
何々して「あげたい」、と思うのは、自分が上に立って見ているところがあるのかな、って。

だって実際仕事をし始めてみたら、障害者だからって劣っているわけじゃないってことを、痛いほど感じさせられたから。
WordだってExcelだって、わたし以上にできるんじゃないかと思う人が何人もいた。
誰が誰に、教えて「あげる」って?
まぁ、それは、わたしの講師としてのレベルがあまり高くないから、と言われてしまえばそれまでだけど。

それに誰も、苦労を絵に描いたような顔なんてしていなかった。
ハンデはあるけれど、自分のできる範囲でそこでの毎日を楽しんでいた。
友達を作り、恋人を作り、新しいことを学び、「授業なんてかったるい」とこぼし、飲みに行き、レジャーに行き、就職活動をする――。
お喋りをし、笑い、怒り、泣き、普通の人と同じ顔をしている。

障害を持つ恩師が、「昔はいろいろ悩みも多くて、そういう施設も大変だったって聞いたわよ」と言っていた。
だから「障害があったって全然平気なのだ」と思うのは、違うのだろう。
今だって悩みがないわけはないだろう。

でもここでわたしが最初に見たのは、車椅子に乗っていること以外は普通の若者と変わらない、かっこいい男の子。
耳が聞こえない以外は、健常者の同じ年の子と変わらない、お洒落な女の子。

そこに困難がないはずはないのだけれど、わたしが短絡的に「役に立ちたい」と勝手な感動をする隙は、なかった。
みんな、自分の足で立ち、立てない人も立とうと前向きに努力していたから・・・・・・



●Prologue


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イメージ

「障害者の方のための施設で、パソコンを教える仕事をしているんです」

そう言うと、『パソコン』部分に関する反応も2つに分かれる。
 ・普通の場合(パソコンを教えてます、とだけ言ったとき)と同じ反応
 ・簡単なことを教えていると思われる

後者のタイプの反応には、割とよく出会った。
「あぁ、じゃ、初歩的なこととか教えるんですか」
「起動や終了したり、タイピングの練習したり」
WordだってExcelだってやりますよ、と言うと、驚かれたりした。

あるとき非常に具体的にも、「じゃ、Excelなんかは、ちょっと表を作って、SUM関数を入れるみたいなことを、やったりするんですか」と言われて、思わず笑みがこぼれた。
そこまで具体的にイメージするってことが、なんだか面白くて。
でもそれが人が思うところの、「障害者のパソコン」なのかな、と考えさせられた。

実際は、その施設は『職業に就ける訓練』を目指しているので、レベルが高い。
「Excelなんかは」、バリバリ関数を使って、VBAまで勉強する人もいる。
もちろん中には、初心者もいる。
でも、それは健常者の講習会や職業訓練にだって、いる。

わたしはここで、決して安穏とは働けない。
自分の能力で足りるかどうか、綱渡りみたいに思うことばかり。
だけど、それを言っても前述の人の場合は、わたしが謙遜しているのだと考えるかもしれない。

どうしてイメージの乖離が起こってしまうのだろう。

障害があってもパソコンは操作できる。
もちろん、障害の種類によっては、タイピングが遅いとか操作に時間がかかるとか、不利な点がある。
だから、検定試験などを受けたら、健常者と同じ合格率にはならないかもしれないけど。

でも、障害者というとどうも、「パソコンなんてできないんでしょうね」とイメージする人は多いらしかった。
パソコンを習いたくても習えないから、操作できない人が多い、と思うのかも。
そういう人もいるに違いない。
わたしのイメージも貧困で、人のことは言えない。

じゃ、自分を例にして、このイメージの乖離について考えてみよう。
『障害者』という言葉がとても広い範囲を持つことを、忘れているからではないだろうか。

足が少し不自由で、杖を持っている人も障害者。
寝たきりの状態で、自分でできることがとても限られている人も、障害者。
内臓障害なので、見た目は健常者と変わらず、手足も同様に使える人も、障害者。

日頃、さまざまな障害と接する機会がなければ、『障害者』と聞いて、
「うゎ~、手足を動かすのも大変な人が、パソコンするんだ~」
と思ってしまうのかも。
そのとき頭に浮かんでいるのは、きっと、寝たきりの状態に近いイメージなのかもしれない。

最近では車椅子で行動している人もよく見かけるようになったし、自分の会社にもいるということも多くなった。
そんなふうに、健常者の社会の中でも障害者が当たり前に行動できるようになり、身近になってくると、イメージは実態に近いものになっていくのだろう。

事実、わたしがここで働き始めた当初と今では、変わってきている。
「障害者にパソコンを教える=自由に動けない人に簡単な操作を教える」というイメージで語られることが多かったが、最近は「ただパソコンを教えているとだけ言った場合」と同じ反応が返ってくることが多い。

社会は少しずつ変わっている・・・・・・



●Prologue


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想像力と発見

わたしには何も偉そうなことを言う資格はないな、と思う。
何事も先の先まで想像してしまい「考えすぎだよ」とよく言われるのに、人の状況をなんと理解していないことか。

わたしの父は、晩年、片足を義足で過ごした。
膝より下からだったし、杖をつかなくても、まぁ、歩けた。
義足になってから東京に来たことも、何度かあった。
母と共に帰る父を、東京駅まで送って行ったとき、東京駅がいかに歩きにくいところか初めて悟った。

エレベーターやエスカレーターがなければ、階段を昇らなければならない。
手すりを伝って一歩一歩、大変そうに昇っていく。
でも急いでいる人にとっては、邪魔な人でしかない。
そして東京には、急いでいる人はたくさんいた。

階段がないと思っても、長い通路があればやはり大変だ。
わたしには平坦に見えていた通路が、父と共に歩いたら、急に凹凸の多いものになった。
継ぎ足し継ぎ足しの通路は、上り傾斜→平ら→上り傾斜→下り傾斜とアップダウンする。
そしてところどころに継ぎ目の段差がある。
「階段ではない」と言っても、同じくらい厄介な道のりだと知った。

父にとっては、下り階段は上り以上に危険で、疲れるものだった。
けれど東京の小さい駅では、「上りはエスカレーターがあるが、下りは楽だからない」ということが多くあった。
父にとっては、楽ではなかった。
わたしは父がこぼすのを聞くまで、上りしかないことに疑問を抱いたことはなかった。
言われて考えれば、山だって下りるときのほうが筋肉を使うし、転びそうにもなる。

実家に暮らす妹が、後で言っていた。
「杖を持てばいいのに。そうしたら楽だし、杖をついてれば周りの人も足が悪いんだなって分かるのにね。一目見ただけじゃ、義足だって分からないからねぇ」
そう、通りすがりの人にとっては、邪魔なところをのろのろ歩いている初老の人にしか見えない。
杖を買ってあげたらどうかな!――わたしは思ったけど、それを口に出す前に、妹は言った。
「買ったんだけど、お父さん、老人ぽく見えるから嫌がるんだよね」

かっこよくも見えない父だけれど、父にとってそれが重要なことだとは、わたしにも分かった。

だいぶ弱ってから、ドライブに行った。
それが最後の家族旅行だった。
宇都宮を通ったので、餃子を食べていこうと言ったけれど、食べられなかった。
父がトイレに行きたくなったからだ。
大きいデパートも探したけれど、男性用トイレに洋式はなかった。
義足になってから、洋式トイレでないと大きい用を足せなかったのだ。
このときまで、男性用トイレにも洋式が必要だと思わなかった――というかトイレのことをあまり考えたことがなかった。
探したデパートには身障者用トイレもなかった。

デパートの店員さんが、「じゃあ、わたしが入口にいて、人が来たら待っててもらいますから、女性用トイレを使ってください」と言ってくれた。
でも――どんな状況であっても、女性用トイレに入るなんてことは、父にはできなかった。
わたしたちも「使わせてもらっちゃえば」と強くは言えなかった。・・・・・・少しは言ってみたけど。
家までまだだいぶ我慢する辛さよりも、女性用に入る心の傷のほうが大きい人だと知っていたから。

身近な問題になってはじめて、こんな不便があったのかと思うことがたくさんあった。
人を常に思いやることができて想像力の豊かな人は、普段から気づいているのかもしれない。
でもわたしはそこまで考えていなかったことがいくつもあった・・・・・・



●Prologue


■目次へ■


【ここで前書き】気楽な気持ちで

この仕事記録は、気楽な気持ちで書こうと思いました。

わたしは、この仕事を通して、いろいろな発見をしましたが、それらは小さな発見ばかりです。

わたしは外部の人間であり、限られた講習期間だけ仕事に行く立場だからです。
わたしには、受講者の詳しい情報は知らされません。
組織の内部のことも知らされません。

一人一人の障害について詳しく知ることもないし、その人たちの生活や就職に関して検討したりアドバイスしたりすることもありません。
そういう個人情報は、その人の職掌や業務上の必要に応じて知らされるので、わたしのような立場の者にはほとんど知らされることはないのです。
わたしは内部で働く立場ではないので、受講する方々と接する期間も数日から十日程度。
ご本人が「自分はこういう障害なんです」「こういうことを悩んでいるんです」と深く相談してくるほど長くはつきあいません。

わたしの役目は、教室に来る人がPCやソフトの知識を多く得られるよう、努めることです。
そのことに関しては、わたしはプロでありたいと思っています。
でも、福祉や医療やリハビリやソーシャルワーカーのプロではない――
また、そうあることを求められてもいないのです。

だから、わたしが思うこと、わたしが発見することは、福祉のプロからすれば些細なことでしょう。
表面的な知識に留まっていることも、現状のほんの一部でしかないことも、あると思います。
わたしには、わたしが見ていることが氷山のどれくらいの部分を占めているのかさえ、分からないのです。

専門家が聞いたら「何を言ってるんだ」というような内容もあるかも・・・・・・

それでもこの章を書こうと思ったのは、これはそういうブログだから。

結局これまでも、たいして興味深い仕事でもないのに体験談を書き続けてきました。
専門知識もないまま終わった仕事も、「素人のわたしはこういう体験をした」ということを書いてきました。

この章もこれまでと同じわけです。
単なる素人体験記――
働いてみたら、「へぇ、こんなことが」「なるほど、こういうことが」と思うこともあった。
それを記録してみようと思った、ということなんです。

どこかで誰かが、わたしと一緒に覗き見体験をして、「へぇ」「なるほど」と感じてくれたらとても嬉しいです。

でもこの章は特に、「わたしはプロではない」ということをご了承いただかなくては、と思いました。
「障害があっても普通の人と変わらない」「障害も個性」――本当にそうだと思います。
一方で、軽々しく決めつけたり、無視できない困難や問題もあります。

だから、賢明な方々は分かってくださっているとは思いますが、改めて申し上げておきます。

この記録は、プロではないわたしが見たただの体験記です。
目線も外側からのものですし、限られた時間、限られた出会いに基づくものです。
「へぇ」「なるほど」と楽しんでいただきたく書くものであり、専門的知識ではありません。
ここに書かれたわたしの見方や感じたことが正解では決してなく、不足が多々あるであろうことをご承知おき願います。

さて。
断りも入れましたし、どうぞ気軽な気持ちで楽しんでいただけますように。

わたしと同じように「へぇ~」と思ってくださいますように。
または、わたしの浅はかな考えを「素人はこう考えるのか~」と笑ってくださいますように。



●Prologue


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●1年目:実は皆できる


●1年目:実は皆できる

Chapter 1 PCプラクティス


恩師の電話

その年の5月、わたしは「PCインストラクター」という仕事を始めた。
そのことを、職業訓練コース時代の恩師に話すと、とても面白がってくれた。

面白がるのも道理で、職業訓練コース時代は、同期の中で一番の初心者と言ってよかったのだ。

インストラクターになった当時、わたしは経理の仕事をしていた。
ところがこれが、未経験のためパートの身分。
1ヶ月の手取りは、実に少なかった。
そこで、前の職場から頼まれて、夜だけ働いていたことがあった。

それを知って、職業訓練コース時代のある先生が、パソコンスクールの仕事を紹介してくれた。
経理のパートは続けながら、夜間と土日だけ働いていた。
毎日ではない。
講座がある日だけ、行くことになっていた。

休みをとって、大好きだった恩師、水上先生に会いに行ったある日。
「こんな仕事を始めたんですよ」
と、面接の様子や、初めての授業のことなどを話した。

しばらくして水上先生は、かつてわたしも通った職業訓練コースの後輩たちに教えるという、大きな仕事をくださった。
11月に2週間だけだが、PCインストラクターとしては「ぺーぺー」のわたしには大役だ。

9月になって、水上先生から電話があった。
「ごめんなさいね、突然。実は講師を探しているところがあるんだけど、○○さんできないかなと思って」

“講師”と来ましたよ、インストラクターじゃなくて。
かっこいい響きに心が揺れる。

仕事の内容は、WordとExcelの講習。
「あなたが通っていたような職業訓練みたいなものよ。ただ、通っているのは障害者なの」
内容は電子技術やら経理やらいろいろなコースがあるが、どのコースに入っても一度はWordとExcelの基礎講習を受ける。
5日間ずつ、合わせて10日。
「今どきはどんな仕事でも、WordとExcelくらい使えなくちゃということでね。派遣の人を雇うことも考えたらしいんだけど、派遣でお願いするには予算が足りないらしいの」
――確かに派遣会社というのは、当人が貰う給料の他に、派遣会社の取り分てものがありますからね。
しかも当時の派遣会社は、まだかなりのマージンを取っている時代だった。

その頃のわたしは、インストラクターの仕事をメインに考えたことはなかった。
いろんな意味で大変そうだったから。
昼間働いている経理の仕事は、辞めたいとは思わなかった。
まぁ、ちょっと向いてないのかな、と感じる日はあったけど、安定って大切だから・・・・・・。
11月の大仕事までにできるだけインストラクターの経験を積みたいとは思っていたけれど、経理の仕事を辞めてまですることはできない。

でも水上先生の役に立ちたいという気持ちは強かった。
それに、仕事に興味もあった。
障害者に教えるって、どういうことだろう。

「でもねぇ、この仕事、午前中だけなのよ。それに3月までで終わりなの。だから、今の仕事を辞めてまでやるのは難しいと思うのよ。他の人にも当たってみたんだけど、それがネックになってね」
水上先生は困ったような声を出していた。

とりあえず、面接だけでも行ってみることにした。
先生は、肩の荷が下りたように言った。
「ありがとう。助かったわ。
そうしてくれると私も、紹介するだけはしたってことで、責任を果たした気になるから。
面接に行って話を聞いて、できそうもなかったら断って。
何度も言うけど、10月から3月までだけの仕事だから」

分かりました。じゃあ、とにかく、面接に行きましょう。
見たことのない場所を見学できるだけでも面白いし・・・・・・



●1年目:実は皆できる
Chapter 1 PCプラクティス



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ボランティアの記憶 その1

障害者に関わるのは、初めてではない。
もうずっと以前、学生の頃にボランティアをしていた。

A市に住んでいて、歩いていると路傍でよく看板を見かけた。
“A市市民ボランティア協会 有料ボランティア募集”

有料にする意味は、介助を受ける人が堂々とした気持ちでいられるためだと、面接で教えられた。
スタッフの側の「してあげる」という気持ちを抑え、受ける側の遠慮を取り払う。
そのために、僅かなりと報酬がある制度にしている。
確かに僅かで、当時でも500円という時給は、他では見なかった。

その500円がどこから出ていたのかは、知らない。
本人にも負担があったのか、公的な援助があったのか、それとも他の何かか。
でも、交通費が出た。
なので、遠くに行くとしても――しかも働く時間が短かったりしても――、マイナスは出なかった。

実際に活動したのは、ほんの少しだった。
・寝たきりの人の夜間高校へのつきそい
・肢体不自由の人の入浴介助
・脳性マヒの人の雑用
・脳微細障害の女の子の話相手

たったこれだけ。

最初にしたのは、重度の障害があって寝たきりの女性のつきそい。
実際に仕事をする前に、一度施設に顔合わせに行った。

行ってみると、40代女性の城田さんは本当に寝たきりで過ごしていた。
体がかなり不自由なので、本を読むにも持っていることができない。
本を支えておく、譜面台のような台が置かれていた。

城田さんは、障害のために学校に行っていなかった。
「この年代の人は、そういう方が多いんですよ」
と、施設の人が言っていた。
それで今、夜間高校に通っている。
一人では行けないので、ボランティアが介助する、という仕事。
わたし一人では、いきなりそんなことはできない。
わたしは介助する施設の職員の方の、さらに助手。

A市駅まで電車に乗っていく。
駅では、駅員さんに車椅子を降ろしてもらう。

学校までは10分以上歩く。
歩いている間、城田さんはいろいろ話しかけてくれる。
なかなか聞き取るのが難しい。
でも何回も聞き返すと、城田さんは麻痺した筋肉で一生懸命話そうとして、興奮してしまう。
興奮すると、硬直する発作が起きてしまう。

職員の方は、毎日出かけていくわけにはいかない。
だから、城田さんが学校に通えるのは週に3日くらい。
城田さんは本当に楽しみにしている、と聞いた。

楽しみにしているんだなあ、というのは見ていて分かった。
基本的に授業の間は、廊下で待っているのだけれど、ときどき教室に行ったのだ。

「今日は漢字テストなんです」と先生に言われたとき。
城田さんは鉛筆を持てなかったので、読みの部分は声に出してもらって、わたしが書いた。
毎日通ってもいないし、テストって言ったって形だけ、という気持ちは誰もが持っていたと思う。
たぶん、城田さんだって。
でも、とても楽しそうに真剣に、テストをしていた。

音楽の授業なので、横で楽譜を持っていたとき。
城田さんは一言喋るのも困難。
だから、テンポに合わせて歌うなんて、到底、無理。
でも、とても楽しそうに歌っていた・・・・・・歌には聞こえなくても。
一生懸命歌ったので、あやうく硬直発作が起きそうになった。

秋の日曜日、文化祭に行ったときのことは、光がいっぱいの記憶。
よく晴れて秋らしく、城田さんもにこにこしていて、昼間見る学校は明るかった。

文化祭の日以外だって、城田さんはいつも明るい人だった。
ほんの何回かつきそいをしたわたしのことなど、もう忘れてしまったろうけど、わたしはあの笑顔が心に残っている・・・・・・



●1年目:実は皆できる
Chapter 1 PCプラクティス



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ボランティアの記憶 その2

ずーっと昔のボランティア、次にしたのもたった二、三回だけの仕事だった。

若い肢体不自由の女性が、一人暮らしをしている。
障害者が一人暮らしをするのは大変だと、ボランティア協会の人は言っていた。
「でも、どうしても自立したいという強い思いで、一人暮らしを始めたんですよ」

わたしの仕事は入浴介助。
食事を作ることもできないので、食事の介助の人もいた。
一度、時間が重なってお会いしたが、当時のわたしと同じくらいの若者だった。
確かに、わたしは女の子とはいえ、ろくな食事が作れなかった――適切な人選だと思った。

「春井さんは慣れてますから、行ったら本人の指示に従えば大丈夫です」
と言われ、やり方も分からず、とにかく行った。
普通のバイトと考えたら、ちょっと遠い場所だった。
交通費は出る仕事だったので、助かった。

春井さんは詩を書いていた。
詩をラジオに投稿していて、いつかもっとたくさん詩を書くのが夢と言っていた。

確かに指示に従えば、入浴介助は問題なかった。
わたしはおっかなびっくりで、優しく体を洗う。すると、
「もっと強くこすってください」
と言われた。

入浴介助は週に二回だそうだから、ちゃんとこすって洗わないと、体だってかゆくなる。
背中などは洗いやすいけれど、局所は力の加減が分からない。
でもそういうところこそ、一番、かぶれたり汚れたりするところなんだな、と改めて気づいた。

わたしの力が何度言ってもうまく入らないと、春井さんは自分でスポンジを持ってごしごし洗った。

この仕事は継続的にはしなかった。わたしは代打でしかなかったのだ・・・・・・



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ボランティアの記憶 その3

その後、もうひとつ代打の仕事をした。

ボランティアだったけれど、交通費が出るので、あまり遠い仕事は割りあてられない。
でもある日、予定した人が行けなくなってしまったので、代わりに行ってくれと電話が来た。
大雪で、いつも行く人が行けなくなった上、代役が全然つかまらなかったらしい。

わたしは支度をして出かけていった。

鴨居さんは脳性マヒだということで、食事やトイレの介助をするために行った。
行ってみると、こうくんという、幼稚園くらいの男の子がいた。

・・・・・・実は、子供が苦手だった。
どう扱っていいか、分からない。
でもお母さんが「こうが知ってますから」とよく言うので、普通に大人と思うことにした。

まず、コインランドリーで洗濯。
「やり方はこうが知ってますから」
洗濯物を持って、雪を踏みしめコインランドリーへ。
「洗剤はどのくらい入れたらいいですか?」――といちいち聞いてしまうわたし。

帰ってから、トイレに入るのを介助する。
「ああして、こうして、座らせてください」
刑事ドラマに出てきそうな、古い木造アパートの一室で、トイレは和式。
「拭いてください」「もっと前の方を拭いてください」
お尻を拭くにも細かい指示をもらう、介助素人のわたし。

次は買い物。
買ってくるものを聞いて、スーパーに出かける。
「場所はこうが知ってますから」
「行くときに、はやたくんに手紙届けていい? お母さん?」

雪の中をこうくんと出かける。
道の横に駐車場があった。
この駐車場を横切ったところに、はやたくんの家があるのだそうだ。
人が歩かない駐車場は、雪が深いままだった。
こうくんと雪に寝ころんで、埋もれてみた。
木の枝の雪を、傘で落とした。
こうくんは届かないので、かかえあげた。

はやたくんの家に手紙を置いて、また歩いてスーパーへ。
いつもはスタッフの人にショッピングカートの子供席に乗せられているのか、「ぼく、乗らなくていい?」と聞いてきた。
本当は乗ってもらって、早く帰って、時間いっぱい掃除でも何でもするのがいいんだろうな。
でもダメとは言えなくて、一緒に歩いたけれど、やがて「ぼく、乗る」と自分から言い出した。
抱きかかえて乗せてあげた。
「お母さんと同じ匂いがする」

わたしが学生の頃住んでいたのは、古いアパートで、シャワーはなく沸かすお風呂だった。
急に電話で依頼されて、シャワーを浴びている時間はなかった。
それでなくても遠い場所で、急いでいっても本来の時間より1時間半も遅れる計算だった。
前の日はお風呂に入っていなかった。脂性肌の髪は近寄ると臭かったと思う。

「お母さんと同じ匂いがする。うんちの匂い」
ごめん・・・・・・

買い物を終えて、アパートに帰って、ご飯を作った。
即席ラーメンだ。
鍋にお湯を入れて、3分くらいゆでるやつ。
鴨居さんのはお湯を少なくして、汁がないように作る。
そして平たいお皿に入れる。
手がうまく動かないから、普通には食べられないのだ。
こうくんのは普通に作る。
買い物に手間取ってしまったことを詫びたら、
「どうせまた、こうがあれこれ余計なとこに寄りたがったんでしょう」
――わたしも自ら雪遊びをしてしまったので、面目なかった。

帰るときになると、こうくんはカレンダーを見ながら、
「今度はいつ来るの?」
と何度も聞いた。
けど、もう来る予定はないの。
ここは遠いから、交通費を払うのは大変だもの。
こうくんは、ほしぶどうをくれた。
とても好きなんだって。
100円くらいのお菓子の箱に大切に入れられていた。

――今はもう、とっくに大人になってるはず・・・・・・



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ボランティアの記憶 その4

秋山さんとは、ボランティア協会の事務所で面接した。
美人のお母さんだった。
娘さんのみなえさんは来ていなかった。
「娘には家庭教師が来るということにしていますが、話し相手みたいに思ってください」
わたしは、みなえさんの障害について書かれた本を一冊持って、帰って来た。
「これを読んでおいてください」
と、お母さんから渡されたのだ。

みなえさんは、年齢としては中学生。
脳微細障害という障害があり、団体生活に適応できない。
今はあまり学校に行っていない。
お母さんは、なるべく人と接する機会を増やしたいと思ったらしい。

脳微細障害は、微細な障害のため、なかなか認識されにくい。
性格的な問題と受け取られやすく、問題児扱いされることが多い。
――と、本に書いてあった。

隔週、一回、かなり遠いB市まで行く。
電車を乗り継いで、最後にとってもローカルな路線に乗って、たどり着く。

美人のお母さんとはあまり似てない、眼鏡の女の子がいた。
「○○××です。よろしくお願いします」
「××ちゃんはさ~・・・・・・」いきなり下の名前、ちゃんづけ。
なじむのは、とても早かった。早すぎるくらいに。
このあたりが、また団体生活でうまくいかないところなのだろう。

家庭教師と言っても、全然勉強はしなかった。
でもみなえさんは気にならなかったようだ。

どうして自分は「××ちゃん」と呼ばれているのに、彼女を呼ぶときは「みなえさん」と堅苦しいのか。
それは、みなえさんが「みなえさんて呼んでいいよ」と言ったからだ。

「最近、思ったんだけど、人間はジャンルに分けられるんだよ。進んでて、新しいことができる才能がある、平成人とか」
その理論によると、古い考えしかできないのが昭和人で、もっと古くなると大正人で・・・・・・となっていくらしい。
「あたしは平成人。××ちゃんは、縄文人だね」
そこまで?!

だいたいそんな感じで、行かない間に彼女が考えたことや、したことの話を聞いた。
家庭教師、ということになっているので、問題集が開かれていることもあった。
だけど「ここが分からない」と聞かれたことは、一度もなかった。

ときどき、お母さんと三人で出かけた。
割と有名なハイキングコースを歩きに行ったり、観光シーズンには賑わう渓谷を見に行ったりした。
大きなデパートに買い物に行ったりもした。
障害のある子のサークルがイベントをやっているからと、行ったこともあった。

この関係は何ヶ月か続き、わたしが学生でなくなるときに終わった。
最後の日に、記念にお財布をもらった。
後にスーパーで置き忘れて、5分もしないうちに戻ったがなくなっていた。
お金はいいから、財布を返して欲しかった。

引っ越しのどさくさで住所録を失くしてしまい、それ以来分からずにいる・・・・・・



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関わり方で変わる意識

ほんの僅か、ボランティアをした以外は、特に『障害者』の人たちとの接触はなかった。
でも後に、父が義足になり、障害者認定を受けていたから、身近ではあったのかもしれない。
しかし、なぜか父を障害者と考えたことはなかった。
別に障害がないと思っていたわけではなくて、障害者という以前に父だったのだと思う。

同じことが、水上先生にも言える。
長年勤めたクリーニング店を辞めて、失業期間中に通った職業訓練。
それは学校で行われていて、水上先生は訓練の担当責任者の一人だった。

先生は本来、学生相手の授業をしている。
麻痺があって車椅子を使っている。
どういう程度なのか詳しく聞いたことはないが、少しなら車椅子なしで歩くこともできた。
「水上です、よろしく」と開校式で見たときから車椅子だったけれど、障害者という認識の前に「水上先生」なのだと思う。

だからわたしは、水上先生といるとき、まったくいつもと同じだ――同じすぎるのかもしれない。
先生と歩きながら話すとき、わたしは歩いていて、先生は電動車椅子で移動している。
たぶん、電動。
押してないし、うぃーん、と音がする。
先生は段差も器用によけたり、乗り越えたりして、進んでいく。
ドアが開けにくそうだったりしたら、わたしが開ける。
「ありがとう」
これは、普通に年配の人だとか、物をたくさん持っている友達だとかにも、同じようにすることだ。

あるとき、先生とわたしと、もう一人、やっぱり先生の生徒だった人と三人で歩いていた。
その人は自然に先生の車椅子を押していた。
今まで何度、先生とお喋りしながら歩いたことか。
でも、車椅子を押そうという発想はなかった。
先生が苦労して動かしていたなら、さすがに気がついただろうけど。

まあ、それで、次に二人で歩いたときには、ちょっと押してみた。
だが、慣れないことはなじめない。
前と後ろに位置しているので、微妙に話しづらいし、やめることにした。
わたしはそういう鈍感な人間なのだ。

じゃあ、ボランティアで出会った人たちは、どうしてそうならなかったのか。
こうして考えてみると、仕事で出会ったからじゃないかと思う。
今、わたしが出会う人たちも、やはり「『障害者』という特性がある人たち」と見ている気がする。

つまり、水上先生と一緒に教室にいて、もし先生が暑すぎるか寒すぎるかして体調を壊しても、それは水上先生自身の体調管理の問題だ。
わたしは友達や知人といるときと同じくらいの気配りで、「エアコンつけましょうか?」と聞く。
しかし、わたしが担当する教室で誰かが体調を崩したら――ちょっと、困る。
施設側も、最低限の障害情報はくれるし(たくさんはくれない、部外者扱いだから)、特に注意が必要な人のことは「××さんは熱に弱いので、エアコンに気をつけてください」と言ってきたりする。

責任として、『障害がある』という特性を忘れるわけにはいかないからではないか、と思う・・・・・・



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面接

さて、水上先生が先方に連絡をしてくださり、わたしからも電話をした。
「とりあえず、面接にぜひ、来てください」
担当の玉名上級マネジャーという人が、熱心に言った。

わたしはパートの勤務先に午前中だけ休みをもらい、その日に面接に行くことにした。

当日は一応スーツを着た。
時間にはかなり余裕を持って出た。

半端じゃない余裕を持って出たのだが、駅からの距離も半端じゃなかった。
指定の駅で降りて、「これこれの道をまっすぐ、そしてこれこれの場所を右に曲がったところ」に行こうとしたが、まっすぐまっすぐ、どこまで歩くのか、不安になった。
後に、このセンターが臨時に代役を探していたとき、知り合いを紹介したのだが、そのときわたしは彼女に言った。
「通りすぎちゃったかな、と思ってもまだまっすぐだから」
ここを、障害のある人が歩くわけ?

右に曲がって、施設に着いた――と思うのだけど、ここでいいのだろうか。
敷地は実に広くて、アメリカの大学かと思うくらい(まあ、それは大げさだけど)。
着いたと思ったところから、さらに歩くこと数分。

広い入口を通って建物の中に入ると、守衛さんが受付に座っていて、
「どちらにご用ですか?」
と聞いてきた。
「ジョブ・トレーニング部の玉名上級マネジャーさまから、10時に面接のお約束をいただいております」
「こちらにお名前を書いてください」
訪問者リストに記入している間に、守衛さんは内線電話で呼び出しをしてくれた。
または、ちゃんとした訪問者かどうか確認した、というべきか。

通路をはさんで受付の向かいには、広いロビーがあった。
ソファや、テーブルと椅子のセットが置いてある。

わたしは訪問者用の黒いひもの名札を渡され(番号が書いてある)、首からぶらさげた。
やがて、玉名上級マネジャーという人がやってきた。

「ああ~、どうもどうも! 玉名です」

そして案内されたのは、わたしが勤務する(かもしれない)授業を行う教室だった。
今の時間は使われていないから、落ち着いて見学できるそうだ。

教室まで歩いていると、廊下が異様に広かった!
そして教室は、机と机の間にある通路が、異様に広かった!

こんなに空間が広い建物も教室も、見たことがなかったので、違和感があるくらいだった。
車椅子の人が自由に動くには、スペースが必要なんだ、と実感した。

「まあ、座ってください」と言われ机の一つに座るが、広い教室でぽつんと座るのは落ち着かなかった。
空間を広くとってある上に、30人が座れるようになっている、実に広い教室だった。

履歴書は専用の用紙があるので、いらないと言われていた。
紙を渡されて記入を始めたが、すぐに終わってしまった。

名前、住所などの基本情報を記入した後、職歴や能力についての項目になる。
でもいらない経歴は書かなくていいようで、学歴も最終学歴のみ。
職歴欄はなく、講師履歴欄だった。
講師としての履歴は――この時点では、実に少なかった。
次に、自分が教えられる科目を書く欄、それから自分の著作物を書く欄――そんなものない!

公共の施設、と聞いていたので、もっと厳しい面接があるかと覚悟していた。
結局、「あなたでは務まりません」と言われるかも、と。
小さい企業でばかり働いてきたわたしにとっては、守衛さんがいる建物も、大きな外観も脅威だったが、意外にもあっさりと終わった。
「今、お仕事をされているということですが、もし可能ならぜひ来ていただきたいと思うんですよねぇ」

わたしでいいの?
水上先生も「あなたがあまり講師経験がないってことは、ちゃんと伝えておくから」と言っていた。
だから、面接に行っても先方のほうで断るかも、と思っていた。

おいおい分かったが、いつもはこんな簡単には決めない。
でも『急募』だったのだ――誰でもいいとまでは言わないが、かなりの程度まで妥協するつもりだったらしい。

PCインストラクター業に関しては、わたしはいつもこの『急募』で経験値を稼いでいる・・・・・・



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決定

面接に来るまで、わたしは迷っていた。

いくらパートでも、連続して10日も休ませてくれとは言いにくい。
辞める覚悟でないとあの講師の仕事はできない。
しかし、経理の世界に入ろって末長くやっていこうと思って始めた仕事を、数ヵ月の断続的な仕事のために辞めてしまうのか。

だからまさに「とりあえず面接にだけは行く」という考えだった。
後のことはそのときまた考えよう、断られるかもしれないし。
――そう考えながらも、「採用します」と言われたら辞退するしかないだろうとも思っていた。

でも面接が終わって、玉名上級マネジャーと共に広い廊下を歩いているとき、ふと思いがわいてきた。
「この仕事を受けよう」

たいていの場合は、慎重派で理屈屋なわたし。
だからこそなのかもしれないけれど、ふとわきあがってきた思いには神秘を感じて、素直に従う傾向がある。
天からの啓示だと思ってしまうのだ。

「ぜひ、検討してみてください」と言われて、その場ですぐ
「もう気持ちは固まっていますので、現在の勤務先と相談してみます」
と答えてしまった。

あわよくば、PC講師の仕事がある日だけ午後から出勤、なんてことができるといいなと考えていた。

でももちろん、そんな都合のいいことは無理だった。
働いていたのは会計事務所だった。
これから迎える12月の年末調整と3月の確定申告の時期、休んだり半休をとったりされるのは困る。
「毎日ではないし、午前中だけだが、他の仕事の話があり、夫が関係しているので断れない」と言ってみたが、「じゃあ来られる日だけでも」とはならなかった。

「夫が関係しているので」は、いわゆる「人間関係を円滑に進めるための嘘」だ。

やはり会計事務所を辞めるか、講師の仕事を諦めるか、しかない。
税理士先生は引きとめてくれて有難かったけれど、退職を決断した。

9月のことだった。
人が決まらなければ、とりあえず10月いっぱいは、午後からだけでも会計事務所に行くことになった。

安定を求めて入った業界を早くも出るわけだ。
それも半年ばかりで終わってしまう仕事のために。

わたしは冒険家の資質があまりないので、先の見えない仕事に就くと思うと、不安で宙に浮いているような気分になった。
それでも、1ヵ月後には会計事務所を辞めて、この学校の契約講師になることが決まった。

決まってしまった・・・・・・



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「実務能力トレーニングスクール」

予想と自分の人生計画に反して、半年間働くことになったのは、どのような施設か?

名称は当然すべて仮称ながら、「実務能力トレーニングスクール」という。

この施設は最寄駅から少し歩く。徒歩15分。
雨の日はきつい。炎天下の夏もつらい。
でも、秋には背の高い木々の並木を歩くのが気持ちよかった。春の新緑の並木も爽やかだった。
わたしが使っている駅からトレーニングスクールまでの道は、並木になっているのだ。

実はもうひとつ最寄駅があり、そっちを使っている人も多い。
そちらの駅までの道には並木などはなく、わたしは夏は絶対にそちらに行かない。
ただ、駅近くには銀行やスーパー、デパート、飲食店などがたくさんある。
わたしが普段使うほうの駅前は、ほとんど何もない。

つまりこういうことである。
「どちらの駅も使えます」=「どちらからも遠いです」というわけで、隣り合う2つの駅の中間に位置しているのだ。
わたしの家の方角からだと、何もない並木道の駅のほうが近い。
逆のほうから通う人だと、商店街だのがある駅のほうが近い。

駅と駅の間は電車では2分くらいで大差ないので、わたしと同じ方向から来ても隣駅を利用している人もいる。
――でもわたしは、特にぎりぎりの朝などは、その2分が重要になる。
また帰りも、同じ15分歩いて駅に行くとしたら、電車が2分早く来てしまう隣駅より並木道の駅のほうがいい。
――特に、午前中しかないPCベーシックプラクティスという仕事のときは、午後からハッピーという会社に行ってダブルワークをしていたので、乗り遅れたくない。(ハッピーについては「出版社見聞録」カテゴリに記載)

敷地は広い。
「同じ敷地内」と言っていいのかどうか分からないが、障害者関連の違う施設がすぐ近くにあったり、運動場があったりする。

広い敷地の中を歩いていき、実務能力トレーニングスクールの玄関を入ると守衛さんがいる。
「おはようございます」と挨拶して入る。
ここでは誰もが礼儀正しく、知らない人同士でも挨拶をする。

建物は大きく、中は広々としている。
廊下は広い。
車椅子の方も大勢在籍しているからに違いない。
たいていの扉が引き戸になっているのも、そのためだ。

もしかしたら、「ここで働こう」と天啓のように思ったのは、当時小さな会計事務所で働いていたからかもしれない。
マンションの一角といった場所にあり、トイレに入るとすべての音が仕事をしている人たちに丸聞こえという狭い環境だった。
人も常に同じメンバー、わたしも含めて5人。
それももっと月日が経てば心地良い安心感につながったのかもしれないけれど――

面接の日、このだだっぴろい廊下を歩いて、解放感を感じたのかもしれない・・・・・・



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