FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

たびたびのお知らせ

8月も後半に入ります。

残暑厳しい折ですが、いかがお過ごしでしょうか?

先日、「そういう年になった」ということを書きましたが、
「そういう年」はもうこれから先、終わるものではありません。

周囲が枯れていく年代に入りました。自分自身も枯れていきます。
子供もおりませんので、もう枯れる一方です。

「そういう年になったなぁ」としみじみ思ったのは、
もう2年くらい前になります。

あんな記事を書いていたら、また、
「そういう年」を実感する時期が来てしまいました。

以前もお話しましたが、次の章の下書き作業が少し遅れております。
8月後半に間に合わせるはずでしたが、
家族に手助けのいる状態になっていて、思うように進みませんでした。

8月後半はお休みをいただき、9月から再開したいと思っております。

もしどこかに、いつも見てくださっている方がいらっしゃいましたら、
大変申し訳ありません。9月にまたご訪問くださることを、
心からお待ち申し上げております。

8月いっぱいお休みをいただきます。
9月1日から再開いたします。

どうぞよろしくお願いいたします。

暑い季節ですので、どうぞお体、ご自愛くださいませ。
スポンサーサイト

「普通のおばさん」

第二の職場の同僚、荒川さんの持論によると、「40を過ぎたシングルのビジネスウーマンは、オカマが好き」だそう。

「私はさー、なんてことない普通の顔して生活してるけど、そういう主婦にもいろんなことがあって、
でも何もないような顔して普通に生きてるのってすごいと思うんだけど、
××さんたちは違うんだよね。オカマが好き」

「オカマはさ、苦しいこともたくさんあるかもしれないけど、
苦しいことがある!ってそれを前面に押し出して、
こんなにこうなのよ!ああなのよ!って、バーンと自己主張してるわけ。
そういう自分も出して、辛口のコメントをして、ときどき感動のセリフも言って、
もろ出しなのね。それがいい! 面白い!――って思うらしいんだよね」

「面白いけど――確かに面白いんだけど、でもそこまで感動したり、いい!って言ったりするかな。
と思うんだけど、好きなんだよねー、××さんたちは」

「○○(有名オカマさん)とか△△(有名オカマさん)とか、すごくいい!って言うわけ。
その人たちに『あんた、こうよ!』って言われると、『そうだ!』って思っちゃうわけ。
言われたいの。『あんたはこういうところがこうなのよ』って、言われて嬉しいわけ」

「どうしてか分からないんだけど、とにかく、40を過ぎたシングルの仕事バリバリしてる女の人はね、
オカマが好き!っていうことが言えると思うの」

えー、正確な言葉ではありません。
骨子しか覚えていないので、言葉はかなりわたしの脚色です。
荒川さん、間違ってたらごめん。

この持論が正しいかどうかは、読む方のご判断にお任せします。
あくまでも荒川さんの周囲の人たちは、ということだと思います。

わたしも同じように思うことがありました。
オカマさん素敵!ということではなくて、荒川さんの最初のセリフです。

自分が年をとってくるにつれ、いろんなことが起こります。

たとえば悲しいことがあったとして、ふと分かるわけです。
ああ、あの人もお身内を亡くしているから、悲しかったろうな。とか。
あの方、介護をなさっていたから、あの頃は大変だったろうな。とか。
そういう事情を知らない人のことも、きっと辛いことや悲しいこともあったろうな、と。

でも皆さん、それをさらけだすことなく、普通の顔をして、普通のおばさんをやっていく。

それってすごいな、ってことが、だんだんわかってきます。
普通のおばさんだと思っていた人たちが、実はすごいってこと。
「普通じゃない苦労があっても、普通のおばさんしてる」ってすごいんだってこと。

でもこれって、年をとって初めて実感するものなんですよね。

自分がこれから先、その人たちみたいなことが降りかかって来たとき、
普通のおばさんを頑張れるかな?って、尊敬します。

オカマさんはオカマさんで時にためになることや、真実を言ってくれるけど、
「普通のおばさんにこそ感心しちゃうんだよね」という荒川さんの言葉には、同感するんです。

「そういう年」

厄年について、そういえば何もしませんでした。
別に確固たる信念があったからとか、実家がそういうことをまったく気にしない家だったというわけではありません。
親が熱心に行事をする家でなかったなあとは思いますが、妹などは確か厄払いもしていたはず。

ただなんとなくです。

占いを見ると気になってしまうほうなので、厄年だと気づいたら耐えがたい思いをしたかもしれません。
気づかなくてよかったかも。
一度だけ、神社の掲示を見ていて、自分が後厄だと知りました。でも本厄を大禍なく知らぬうちに終えてたからーーと、気持ちは少し楽でした。

超自然の話は苦手ですが、自分にも理解できることなら納得です。

厄年というのは、年齢的に何事か起こりやすくなるから、注意しなさいよ、という意味。
そう言われたときはなるほどと思いました。

確かに、そういう年齢はありそう。
「このくらいの年齢になると、ホルモンのバランスが崩れて、病気をしやすくなる」とか「この年齢になると親が年老いてくるので、それに伴っていろいろしなければならない」とか。

それなら納得だと思いました。

ちょっと厄年とはズレた年に、確かに立て続けに災難が起こりました。
そういう年になったんだと思いました。

身内に病人が出るとか、年老いていくとかーー
それは自分だけのことではなくて、結婚していれば相手の家族だってあります。2倍になるんですね。

自分の体も年老いていて、少しの無理がたたるようになったとも気づきました。
なんだかものもらいができたようだと思っていたら、やがてひどくなってお岩さんのようになってしまいました。
青黒くなっていて、とても人前に出られません。ーーインストラクター業なのに。

迷ったけど、このひどいありさまよりましと、眼帯をする始末。

その後も一度、心身が疲れていた時期に出ました。
原因はまったく違うことだったのだけれど、疲れていたのです。

2度目のそれは、疲れてはいたけれど、やる気がなかったわけではありません。
気力はあったけど、体には何らかの故障が出てしまう。
気力でカバーできない年齢になったことを感じました。

「そういう年になった」と実感しました。
肝に銘じておかなくてはならないのだと、思いました。

若い頃にそんな話を聞いても、「ふうん」と思うことはあっても、実感しなかったでしょう。
自分は違うという気がしたかも。

でも「そういう年」になったんですね。

子育てに追われていたら過ぎてしまって元気な50代に突入したかもしれませんけど、ずっしりと重く感じるこの頃です。

モチベーション 02

自己啓発本はカンフル剤だから、その場は効いたように感じても長続きしない。

自己啓発本を読むことがあまりなかったけれど、このことは納得した。
前回の「モチベーションで仕事はできない」という本の話だ。

でもずっとカンフル剤を打ったかのように元気を持ち続ける人を知っている。
ネットだけのつきあいなので、もしかしたら知らないときはそう元気でもないのかもしれないけど。

わたしよりもずっと年下の彼は、とても印象に残っている人物なので、つきあいが途絶えた今も忘れられない。
つきあいといっても、たまにコメントをする程度で、わたしもそのSNSをやめ、彼もいつしかやめていった。
完全に彼がやめてしまうまで、たまに更新される日記を楽しみに読んでいた。
――わたしには真似のできない情熱の持ち主だったからだ。

これまでももしかしたら、どこかで語っているかもしれない。

なにしろ情熱家で、学生時代は「伝説をつくる」ことを目指していた。
年をとりすぎていて、わたしにはその意味が分からなかった。
――「伝説」って具体的に何?

男性マンガで、プロのレーサーじゃないけど、走りが好きで峠を攻めているようなドライバーやライダーの話を見たことがある。
あれなら分かる。
「この峠では負けたことがない」とか「アイツに勝てるヤツはいない」などと讃えられ、辞めて一般ピープルになった後も「すごいヤツがいた」と語られる人。
――それは伝説だよね。

でも彼は、「伝説を作りに」友達と南へ旅行して、ナンパをする。
多大な情熱を持ってナンパをし、甘酸っぱいいっときの出会いを情熱を持って語る。
夜は友達同士で語りあい、明日はもっとガンガン攻めようなどと作戦を立てる。
友達同士で恋を応援しあい、陰に日向に甘酸っぱい恋の成就を支援する。
最終的に、たぶん――キスをしたり、もう少し先まで進んだりして、ひと夏の旅行と恋は終わる。

「伝説を作った!」
――伝説って思い出のこと?

頭も固いし、子供もいないから若い感性にはどんどん取り残されていく。
そんなわたしにはよく分からない話だった。

でも彼が何事も情熱を持って取り組んでいることは分かった。

就職活動でも、大きな野望を抱いて情熱的に面接を受けていた。
とにかくお金持ちになりたくて、そのために証券会社に入ろうと頑張ったり。
証券会社狙いの就職活動はあまりふるわなかったようだが、ITバブル社長たちに憧れたり。
自分もいつか、30代のうちに大金持ちの大社長になりたい、と夢を抱いていた。

なにしろ情熱的に喜び、情熱的に夢を見、挫折するときも落ち込むときも情熱的。

会社に入ってみれば、なかなか頂点の人になるのは難しいと分かって、幻滅するかもしれない。
そういう危惧を感じさせた。

確かに彼は、会社に入って多少の幻滅を味わった。
計算してみたら、入った会社の給与体系では、どう頑張っても30代で年収一千万にはならないと分かったときに。
営業職だったので、実力さえあれば地位も給料も上がる、というのがよくて入ったのだろうと思う。

しかし彼は、常にカンフル剤を打ち続けているような人だった。
それもどこからでもカンフル剤を手に入れられるのだ。
ビジネス書も読んだかもしれないし、自己啓発本も読んだかもしれない。
でもそれだけでなく、自分の上司が自分より給料をもらっていて、チームの人たちに持ち上げられ、ちやほやされていて(上司なんだから当然だが)、ときに鷹揚にときに厳しく、上の人らしい態度をとっていることも、「憧れ」というカンフル剤になる。
自分もああなりたい!と思う。
そのために頑張れる。

「モチベーションで仕事はできない」には具体例として、夢夢と夢ばかり語る人が出てくる。
「何をやりたいかが重要だ」と語る人が出てくる。
そのために淡々と仕事をこなしていく人にどんどん差をつけられていくのに、「本気を出せば自分はもっとできる」「あいつは今に痛い目を見る」とつぶやき続ける。

でもわたしの知っている彼は、夢ばかり語っているのに、仕事もする。
それも淡々とではなく、情熱的にできるらしい。

彼にはやりたいこともある。
「あの上司みたいになりたい」「もっとたくさん商品を売れるようになりたい」「もっと後輩に好かれる先輩になりたい」「取引先の人にお前でなきゃダメだと言われたい」

そのために彼は、情熱的に仕事をこなしていく。
次の営業のために企画を考え、プレゼンの技を磨き、つきあいのためにゴルフを覚え、上司とはしょっちゅう飲みに行く。

営業に失敗することもある。
上司にどやされることもある。
でもその日落ち込んでも、翌日には「この失敗は成功へのチャンスだ」と考えられる。
考えるだけでなく、本当に次に向けての努力を始められる。

彼が大成功して大出世しているかどうか、わたしは知らない。
彼が日記を書かなくなってずいぶん経つ。

もしかしたらそれらは若さゆえの情熱であって、今は夢やぶれたのに未だに追っている「イタい人」になっているかもしれない。
でもあれだけ何年もカンフル剤を打ったかのような情熱を持ち続けていられた人だ。
そうはなっていない気がする。

彼は証券会社の夢が破れたとき、情熱的に落ち込んだが、次の目標に情熱的に立ち向かっていった。
だから、どこかで痛い目に会っていたとしても、自然に目標が修正されて、新しい夢に向かって粛々と――いや、ガツガツと進んでいくように思う。

たぶんこんな人、そういないだろうと思うけれど、存在していないわけではない。
とわたしは、彼を思い出すたび、いつも思う。

モチベーション 01

普通のビジネスパーソンとしてバリバリ働いているわけではないので、わたしはあまりビジネス書を読んだことがない。
これが初めて読んだビジネス書かな?と思う。もし今までに何か読んだことがあったとしても、記憶には残っていない。

よく見ているブログで、「モチベーションで仕事はできない」という本が面白そうなので読むつもりだ、と書いてあった。
Amazonが紹介として本文の一節を載せていて、それが気に入ったからという。

わたしもその一文が気になって、読んでみることにした。

「モチベーションで仕事はできない」
やる気が出ない人のための新しい働き方
坂口孝則 著

一言で言って、「モチベーション」「やる気」「夢」ばかり語られるけど、実際は淡々と粛々と仕事をしていくほうが良い仕事ができる、という話だった。
架空の(?)事例がよくできていた。違う人の話かと思っていると、前に出てきた人につながっていたりして。

わたしが特に共感し、「わたしもそれ、ずっと思ってた!」と感じた部分について、触れたいと思う。

あ、その前にひとつ、モチベーションについての本を読んだことがなかったわたしは、モチベーションを上げるための本てどんなものか知らない。
これからも読みそうもない。そういうのはバリバリ働くビジネスパーソンものだという気持ちが抜けきらないからだ。
でもこの著者が端的に分かりやすくまとめてくれたので、読んだ気になった。

---------------------------------------------------------------
 モチベーションなるものを仕事にまったく見出すことができない私は、自分のことを病気ではないかと思った。「モチベーションがあなたを変える」「モチベーションが成果をもたらす」と語る書籍を片っ端から読んでみた。有名なモチベーションコンサルタントの講演を収めたCDも聞いてみた。数万円する外国の有名なコーチのものも買った。

●失敗したら成長のチャンスと思え
●目標をもて、セルフイメージを高くもて
●仕事を愉しくしろ

 それらはほぼ、この三つの品を変えたり、組み合わせたりするものに感じられた。さまざまな本があり、もちろん、具体論を語っているものもあった。ただ、結局はこの三つの変奏曲にすぎなかった。
---------------------------------------------------------------

そして、わたしが共感したところ。
わたしが見ているブログの人が興味を持った一節。

---------------------------------------------------------------
 モチベーションと同じく、ポジティブシンキングに関するものも読み漁った。この二者は本によって、ほとんど差異がないほどに似通っている。「何があっても、それをどう解釈するかは自分しだいだ」と多くは語っていた。他人から何といわれようが、たしかに自分にとっては無関係かもしれないものの、まったく気にしないのは超絶技だと私には思われた。私が出した結論は、ポジティブシンキングとは鈍感ということだった。
 誰しもカンフル剤を打ち続けることはできない。自己啓発書もモチベーションアップ書もポジティブシンキングも、精力剤である以上、その効果には必ず終わりがある。結局、私も多くのやり方を試しては、次の月曜日には出社してパソコンの電源を入れるとき、「仕事はイヤだなあ」といつも思っていた。
---------------------------------------------------------------

わたしもポジティブシンキングがよく理解できず、ずっと思っていた。
――バカになれってこと?

この著者は、本を書くときも自在に要望に合わせるそうだから、「わぁ~!わたしも同じですよ~!」とおめでたく喜ぶのもどうかと思う。
でも思っていたことをズバリ言ってくれる人がいると嬉しいものだ。

それともう一つ、PCインストラクターの章で「70点を目指す」ということを書いた。
同じことをこの著者も言っていたので、やっぱりね!と嬉しかった。

---------------------------------------------------------------
 私は資材部に配属されたといった。「まれに100点の品質の部材を生産するが、ときに50点の品質の部材を生産する取引先」と「平均的に70点の品質の部材を生産する取引先」では、圧倒的に後者が優れている。前者はたとえば、作業者のばらつきとか、経営者御方針でアウトプットがコロコロと変化する企業だ。それにたいして後者は、そのようなものに関わらず安定した製品を提供してくれる企業だ。
 あなたがつきあうとしても、どちらがよいかはあきらかだろう。これを人間に置き換えても同じことがいえる。調子がよく、モチベーションに優れているときに100点をとる社員よりも、平均的に70点をとる社員のほうが圧倒的にリスクは少ない。
      中略
 プロフェッショナルとは、ときに100点をとれることではない。安定した品質をお客に約束できるひとのことだ。
---------------------------------------------------------------

本を前にして、一人うなずいていたけど、物足りなくなったので書くことにした。

この本ではこの後、モチベーションを追い求める社会をさらに解明。
事例も出して、具体的にモチベーションを追い求める人と、ただただ仕事をコツコツ進めていく人を比較できるようにし、後半はどのように仕事をしたらよいか方法を提案している。

でもわたしの満足は、この最初の最初の部分で、充分満たされた。
読むのに時間もそれほどかからず、ビジネス書というのはこういうものかと思った。
そりゃ忙しいビジネスパーソンの皆さんがカンフル剤として読むのに、長時間かかる本はダメだよね――

ストレス緩和法05:嫌なことから遠ざかる

たまにストレス解消法にもこの項目が挙げられているのを見る。

でも「問題とちゃんと向かい合おう」と言う人もいる。

向かい合わないといけない問題もあるし、避けられない問題もある。
それはもう、つくづく分かっている。

だからこそ、避けられることは避けようかな、と、ここ数年は考えるようになった。
普通の人が「避けられる」「避けられない」のラインを引く位置より、ほんの少し、わたしのラインは「避けられる」の領域が広い。

例をあげる――事実というわけではない。あくまで例だ。

「夫の実家に正月くらいは顔を出さなきゃ」
が、わたしの場合、
「出さなくてもいいか。先方も会いたいのはわたしじゃなくて夫だし」
となる。

だけど「この人と飲みに行くと話がつまらないんだよなぁ。その上長いし」と思っても、仕事上必要な関係なら行く。

義父母はわたしの収入に関係がないが、仕事上のつきあいは収入にも関係してくるからだ。

こんなふうに即物的に考えることに対する自己嫌悪も、避けられるようになった。
つまり、気にしなくなった。
自分の心を守るためには仕方がないと理由をつけて、嫌なことは最低限にする。

ツワモノは「私はすごく行きたいけど、私が行くと気を使わせてしまって、申し訳なくなるから」と、さも相手のことを思っているように自分にも人にも言うことができる。
でもわたしは、そこまで精神的に強くはなれない。

精神的に強くないから、嫌なことを我慢して負担を増やすより、避けられるものは避けたほうがいいのだ。
それが嫌いな音楽や好みでない絵などであれ、もっと深い命題に関することであれ――

そうだ、たとえばわたしは、素晴らしい人生を歩んでいる人とは親しくつきあわないようにしたりすることがある。
自分を引き比べてみじめになりたくないからだ。

「人の幸せを喜んであげられないなんて! 心が狭い! 喜んであげなきゃ!」と自分を責めて嫌な思いをするより、見たくない人の幸せなど見ないほうが楽だ。

自閉症の人が少しでも楽に生きていけるようにする方法として、前の記事で「生まれ変わる儀式」や「好きなものだけの部屋」などについて書いた。
そんな方法論のひとつとして、「嫌なことをなるべく避ける」というのもあった。

自閉症は治らない。
いかに楽に、幸せに生きられるようにするか、緩和法を考えるしかない。
「嫌だと思う気持ちを克服して、これこれのことをするんだ」と決意したって、克服できないのだ。
自閉症はずっとつきあっていかなければならない障害だから。

わたしなんかのストレスを、障害を持ちながら生きている人と比べているわけではない。

ただ、ちょっとヒントをもらっただけ。

もうこの年までずっとこうしてやってきた性格やストレス耐性は変わらないだろう。
若い頃は「もっとこういう自分になろう」と決心したこともあったし、「こういうことをしよう」と努力したこともあった。

「人の幸せを喜べる自分になろう」というのも、目標に掲げたことがあるのだ。

――少しはなった。
以前より、ねたみやそねみを抑えて、人の幸福や勝利を祝えるようになった。

でもそれは、わたしが美しい心の持ち主になれたということではない。

マイナスの感情を表面に出さず、できるだけ喜んでいるような顔を作れるようになった――それだけ相手を思いやれるようになった。
人の幸せを見て沸き起こるねたみなどの感情を、少しは無視できるようになった――自分なりに努力、訓練したのだ。

それって、心から喜んでいるのではなく、喜んでいるように見せられるようになっただけのことだ。
(でも相手を思ってのことだから、進歩といっていいはずだ。)

わたしはここまでなのだろうと思う。
この後、何年努力しても、これが精いっぱい。
もうほんの少しだけ、喜んでいる表情がゴージャスになるかもしれないけど、そのくらいだろう。

この先ずっと、ストレスを感じながら無駄な努力を続けていくのだろうか?

わたしももう年だ。充分頑張った。わたしはここまでだった。善人になりきれなかった。
だから前向きな努力をむなしく続けるより、自分の心を安らかにする方向に切り替えていこう。

――そう思えてきたのは、ここ数年だ。

嫌なことは避けようと思う。
避けられないこともある。それは仕方がない。
わたしは自閉症でもないのだし、多少の我慢はしなければバチが当たるってものだ。

でも無理をするのはやめよう。
最低限のことだけしていればいい、と思うようにしよう。
最低限以上に頑張るのは、「それだけのメリットがある」と思えるときだけにしよう。

そんなふうに考えている。
嫌なことを避ければ、その分、ストレスが減るのだ。

ストレス緩和法04:居心地のいい部屋

02で書いた回に、講師がふと言ったことが心に残った。
それはいつか使えるかもしれないと思ってーー

毛布を触るなど、心地よい触感が不安に効くという話だった。

他の講師も語っていたので有名な実験らしいが、アカゲザルを使ったハーロウの実験というのがあるらしい。
アカゲザルの赤ちゃんを集める。
針金製の触り心地の悪い、お母さんザルの人形を置く。その人形はオッパイを出す。
反対側に、ぬいぐるみみたいな触り心地の良いお母さんザルの人形を置く。その人形はオッパイが出ない。
すると赤ちゃんザルは、全員がぬいぐるみお母さんに群がるという。

つまり、母親を求めるのは飢えを満たすためと思われるが、それ以上に心地よさを求めている。
という実験だそうだ。

触感のよいものが安心感を与えるというのは、このように証明されている。

――まあ、学問だから、この説や実験に対して異議を唱えている人もいるだろう。
わたしはこういう研究には全然明るくないので、どちらが正しいか分かるはずもないが、確かに気持ちいいものを触ってると、わたしは一時的に不安が少なくなる。

それを推し進めて考えると、心地よい音楽に反応する人もいれば、心地よい絵に反応する人もいるだろう、となる。

そうしたら、ひとつの部屋が紹介された。
症状が強く出て、生活に困難を抱えている人が、耐えきれなくなったとき安らぎを得る部屋。

自閉症の人は感覚が鋭い一面もあって、逆に感覚過敏で困ることもある。
そのような感度の良い感性のためか、その例の人はステンドグラスを見ていると非常に落ち着くのだそうだ。
だから窓にはステンドグラスがはめられている。
触り心地の良いソファを置いてある。もちろんその人が気に入っているもの。
他にもその人が落ち着くもの、好きなものがある。
好きなものだけの部屋だ。

つらいときはそこに入って落ち着くそうだ。
これは重度の心身症患者にも有効だそうだ。

部屋ひとつというのは普通の人には難しい。
でも有名人が、「地下にホームシアターがあって、そこが僕の憩いなんですよ。お気に入りのソファがあってねーー」なんて言っているのは聞いたことがある。
経済的ゆとりがあれば、こういう好きなものだけの落ち着き部屋を作れる。

でもわたしでも、部屋ひとつは作れないまでも、コーナーくらいはできるかな?

きっと大切なことは、(これもちょっと儀式と似ているけど、日常から切り離すことだと思う。
普段も雑誌を読んだり、電話をしたりなど、使っていては特別な部屋にはならない。
「ここは落ち着くための部屋」という線引きが必要なのだと思う。

もし部屋をひとつ、まるまる使えないのなら、真っ暗にしてろうそくをつけるというような、日常が見えない環境、非日常を作り出すことも必要なのだ。

そういう空間をわたしのだらだらした家や生活に取り入れるのは難しそうだ。
けれど、何かの形で取り入れられるかもしれない。
頭の隅にとめておいて、いつか役に立つときがきたら、ヒントにしようと思った。

ストレス緩和法03:儀式

自閉症スペクトラム障害について、公開講座を受けにいくことになり、夜間に通った。

その中で、自身が発達障害という講師がいて、話の中で儀式のことを語っていた。
文化人類学だったか、民俗学だったか、別の何かだったか、そういう研究をしている人だった。
そういう研究をしている人にとっては、「儀式」は身近で当たり前の概念なのだろう。

たとえばお宮参り、結婚の際の村のしきたり、お葬式ーー人の生活にはさまざまな儀式がある。
その儀式をすることで、区切りがつく。新しい生活に入る。
たとえば四十九日の法要をすることで、「亡くなった家族はあの世に旅立った。故人になった。一人少なくなった新しい家族での生活が始まった」ということになる。とか。

有名な自閉症の人の自伝の一節を引用し、儀式を経ることについて語っていた。
確か、自閉症の中には通常以上に感覚が鋭い人がいて、本人にとってのきっかけとなった出来事が強烈に感じられるのだ。
普通の人には「綺麗な景色だなあ」程度で終わる偶然の出会いが、生まれ変わったかのように強烈な体験で、考え方や生活が一変することがある。

もちろん鈍感な健常者には、なかなか難しいことだ。

このときの講師は、自分が発達障害と知る前から、このような儀式の重要性に気づいて実践していたという。

研究のためにフィールドワークに出たが、行った先でストレスフルな生活を送っており、耐えかねた。
発達障害があったことで、よりストレスが多かったのかもしれない。

そこで宿舎に帰ったらまず儀式をすることにした。
広い部屋の中で「ここ」と場所を決めておく。儀式は毎回そこでする。
儀式なのだから、必ずここでという場所を決めるのも重要なのだろう。
灯りを消し、ロウソクをともす。
これまた儀式らしくするために雰囲気作りも大切なのだろう。
そしてロウソクに向かって、その日のストレスをぶちまける。
とにかくひたすらぶちまける。
1時間経ったら儀式は終わりだ。まだ言いたいことがあったとしても切り上げる。
これも重要だ。儀式というのは、ルールを曲げていいものではない。
そうすると、脱皮したかのような新鮮な気持ちで今日のストレスを振り落とせる。

完全に忘れてしまえるわけではもちろんないだろうが、新たな自分になったようにスッキリできる。

こういうの、よくあるよね?
と、聞いているとき思った。

友達に話してスッキリする、とか、日記に書きなぐってスッキリする、とか。
最近は、嫌なことを書いたり話したりするのは良くないという意見もある。
嫌なことを何度も再現することになり、怒りや苦しみの記憶が薄れないからだそうだ。

それはともかく、わたしも「これでスッキリする」と言われることを真似してみたことはある。
ところがあまり効果がないことも多い。

このとき発達障害の講師の話を聞いていて、思ったのである。
わたしには儀式という視点はなかった。

たとえばストレス解消のためにゆっくり入浴する。でもそれが普段の入浴とどう違うだろう。
ちょっと高い入浴剤を使ったり、音楽を流したり、いつもよりゆっくり入ったりはするけれどーー

もっと儀式色を濃く打ち出してみる。
そうしたらもう少し変わるかもしれない。

ま、この講師は儀式が合う人だったのだ。
誰にでも同じ方法が効くわけではないことは、よく知っているではないか。

とはいえ、この儀式という新しい視点にはなるほどと思った。
儀式といえるくらいの演出や伝統を作るのだ。意識して。

そうしたら、これまでに試したことのある方法でも、もっと劇的に効くものになるかもしれない。

ストレス緩和法02:不安

一連の公開講座は、各回違う講師がやってきて、それぞれテーマに従って話をするというものだった。

あるときやってきた大学教授は、主に自閉症児に関して研究をしているようだった。(自閉症児の特性に言及することが多かったから。)

自分は自閉症まではいかないけれど、どことなく共感できるところもあるなぁ、などと聞いていた。

たとえば「自閉症の人は、青写真通りにいかないとパニックになる」というところ。
極端なエピソードでは、ぶらんこを人に押してもらうのを自閉症の子供は嫌うことがあるそうだ。
なぜなら、人が押すと、「このくらい揺れる」という自分の青写真通りではなくなるから。
なるほど。

わたしは「あとどのくらい」というのを知りたがる。
先が見えないのは好きではないのだ。

本を読んでいても、あと何ページなのか知っておきたい。
最初に最後のページを見ておいて、「435ページあるのか」と分かっていて読むのが好き。
DVDを見ていても、最初に何分か知っておきたい。「2時間38分の作品なんだな」と分かっていると安心して見られる。

人によっては、この話をすると、「あとどれくらいで終わるって分かっちゃったら、面白くないじゃん」と言う。
それはそうかもしれないけど、そういう問題ではないのだ。
先が見えていないのは好きではないのだ。生理的に嫌なのだ。落ち着かないし、不安なのだ。
――理屈じゃないのだ。

だから軽作業などの仕事でも、「これだけ封入する」とあらかじめダンボールが見えているとか、「5000枚あります」と最初に言われているような場合は、楽しく仕事ができる。
「今はこれをやってください」「今度はこれをやってください」と終わるとそのつど指示されるのは苦手。
これが1箱、次はこれが5000枚、次はこの作業が1箱、と分かっているなら違う仕事になるのはかまわない。

これって、自閉症とかではないのだろうけれど、予定通りにいかないと嫌だという気持ち、「あ、なんかちょっと分かる気がするな」と思ったのだった。
不安とか嫌悪感とか混乱とかがわいてきて、そしてコントロールできない。
「だって、こうじゃない」「こういうことじゃない」と説得されても、頭で分かってもコントロールできないのだから仕方ない。

ああ、でも今は、わたしの自閉症傾向について語りたいわけではない。

そんなそこはかとない共感を感じながら聞いていたら、不安についての話になった。
「不安を鎮めるには、触感が効果がある。これは健常の人でもそうです」

たとえばある自閉症の人が、毛布に顔をすりすりしていると気持ちが落ち着くというなら、家に帰ったらまず毛布に顔をうずめて、気持ちを落ち着ける。
就労すれば自閉症の人には健常者以上のストレスが積み重なるだろう。
だから、帰宅したらまず、ささくれた心を落ち着ける。
そうでないと、仕事を離れたのに落ち着かない心を引きずってしまうのかな、と思った。

これはいいかもしれない。

実はわたしも「触感が不安に効果がある」というのは実感していた。

東日本大震災のとき、毎日が不安で仕方なかった時期があったが、そういうとき触り心地の良いものは安心感を与えてくれた。
根本的な解決にはならないけれど、どうしようもない不安を抱えているときは、一時しのぎも重要なのだ。
解消法というより、緩和法だ。

今もわたしは将来を考えると不安でたまらなくなるときがあるが、そうなったときは安心感を求める。
一時しのぎであっても、何もないよりいいのだ。
特に、不安というのはだいたい考えても仕方がないことが多いので、根本的な解消にならないことがある。

その場を乗り切る、しのぐということも大切なのだと話を聞いていて、改めて思った。

いつも不安を一時しのぎで解消しては、「でも根本的に解決したわけじゃないんだよね」と思っていた。
だけど自閉症の人だったら、根本的に解消することはない。
対症療法的に人生を乗り切っていくしかないのだ。

頑張れば何でも解決できるわけじゃない。
解決できなくても生活していかなくちゃならないこともある。
一時しのぎでもいいんだ。

考え方が少し変わって、目の前のもやが晴れた気がした。

自分が安心できるものを見つけて、それを不安緩和に利用する。
毛布でいいなら安上がりだろうけど、犬とか猫かもしれない。子供とのスキンシップかもしれないし、恋人とのふれあいかもしれない。
依存症みたいになってはいけないかもしれないけど、上手に利用できれば力になる。
不安でたまらなくなったときやみくもに精神論でなんとかしようとするのではなく(なんとかなればそれはいいだろうけど)、科学を使うのだ。

不安を緩和するには触感が効く。
でも触感に限らなくてもいいかもしれない。見ていて心地よいものでも、聴いていて落ち着くものでもいい。
自分の心に効くものを見つけて利用する。

心がけておこうと思った。

これはストレス社会を生き抜いてきた一日の終わりにも効果があるかもしれない。
不安ではなく、ストレス緩和に利用するのだ。
でもそのときは、もしかしたら「儀式」を併用するのがいいかもしれないな。

「儀式」については、記事を改めよう。

ストレス緩和法01:求められるストレス解消

よく雑誌などで見かけるストレス解消法特集。
テレビでは観光地やレストランなどに行ったタレントさんが、「癒されますね」とよく口にする。

とかく今はストレス社会。
みなさん本当にストレスがたまっていて、癒しやリフレッシュを求めているんだなあ、と思う。

仕事でアンケート入力をしているけれど、ストレス解消法特集はやはり人気。

大変良かった
・ストレスがたまっているので、参考になった。
・ストレスがない人なんていないと思うから、皆さん参考になるのではないでしょうか。
・参考にして実践してみます。

仕事のストレスはもちろん多い。
夫の実家は親戚づきあいが多くてストレスがたまる、嫁姑のストレスがある、など身内ストレスも多いようだ。
それからご近所ストレス。
ママ友、趣味の活動仲間、などのストレス。

いろいろな人がいろいろなストレスを抱えている。
本当に、人間関係に悩んでいない人など存在しないのかと思うほど。

ストレスの一種で不安を抱える人も多い。

わたしも抱えている。
子供もなく、貯金もろくにない。老後はどうなるのかと考えると不安でたまらなくなる。
夫に先立たれたら、孤独な毎日をこんな不安を抱えて過ごすのかと思ったら、夜も眠れないときがある。

以前、「私はおひとりさまなので、将来を考えると不安で眠れない」という回答を入力したときは、とても共感した。
その人に言わせると、おふたりさまなだけまだ良くて、少なくとも将来のおひとりさまの可能性は五分なのだからまし、贅沢だということになるかもしれない。
でも子供がいても将来を不安に思っている人もいて、状況によって多寡はあるだろうが、多くの人が不安を抱えているようだ。

これだけあちこちで解消法が公開さてているのに、それでもやはり多くの人が悩んでいるというのは、解消されていないのでは?
解消法を実践しても効果は少ないのでは?
という気がしてくる。

他の人の解消法を知りたがる人や、有名人の解消法をありがたがる人や、効果のある解消法を教えてくれと探し求める人は多い。
なんとかしてストレスを解消できたらと、誰もが切実に思っているようだ。

でも探し求めてもなかなか見つからない。
誰にでも効く絶対確実な方法なんてないのだ。
だから他の人の解消法も確実ではない。全然効かないこともある。

わたしもずいぶん探し求めた。
出した結論は、「自分に合う解消法を見つけるべき」。
つまりテレビや雑誌で人の解消法を熱心に学んでも、どうにかなったりはしないと悟ったということ。
参考程度だと自覚しておいて、期待しすぎない。どれかひとつが自分にも効けばありがたい。くらいに思うこと。

もうひとつの結論は、「医学的に証明されていることは、多くの人に当てはまる」。
糖分をとりすぎるとこうだとか、運動をすることで気持ちはこうなるとか、そういったことだ。
ただ、どこまでが本当かは判断が難しい。
医学だって研究が進めば今の常識が覆されることもある。
それにそもそも、それが検査や実験によって証明されたことなのか、それとも推論や精神論に過ぎないのか、はっきり分からない。
マスコミに露出しているからといって信頼できる医師だとも限らないし。

自分なりにストレス解消法やリラックス法をまとめようとしたこともあった。
それは人の役には立たなかったり、自分の役にも立たなかったりしたが。
ほんの少しのちの自分の役に立ったなら、まあいいか。

改めてこんなことを考えているのは、発達障害などの勉強で講座に通ったとき、少しヒントになることを聞いたからだ。
ストレス解消について述べていたわけではないのだけれど――
その上、単にかすかなヒントというくらいのものだったのだけれど――

自分なりにヒントにしてみようと思った。

派遣の条件

派遣といっても、高い能力を要求される仕事の人は違うのだろう。

わたしのような特別な技能のない一般的な仕事の場合だけなのだ、きっと。

とにかくわたしのような者は、奴隷の身分に甘んじるしかない。
奴隷といっても、きつい労働を鞭打たれながらしたり、生活上の自由を与えられなかったりというわけではない。
逆らえないという意味――ご主人様には絶対服従という、気持ちの問題だ。

宮仕えでも、会社仕えでも同じだ、社員だって上には逆らえない。それは否定しない。

でも、そのピラミッドにおいて、下の全然いない立場が派遣だ。
下は地面ばかり。
土台石の代わりはいくらでもあるのが社会だ。

上もいるけど下もいる人たちとは違う。
2年目の新人だって、1年目の新人という後輩がいる。
派遣だって下にいる。

もし社員が上にたてついたら、もしかしたら左遷されたり、嫌われて肩身の狭い思いをしたりするかもしれない。
でも社員をクビにするのは、そう簡単ではない。
少なくとも派遣よりは難しい。

派遣なんて、クビにする必要もないのだ。
契約を更新しなければいい。

収入を守りたければ、ならぬ堪忍するが堪忍しっぱなしである。

下についたアルバイトや派遣がとにかく長続きせず、すぐに辞めてしまう社員がいた。
何年にもわたりずっと人が入っては辞め、入っては辞めているのは、どう考えてもその社員に問題がある。
でも社員であるその人はクビにはならない。
他の部署で満足して働いていたアルバイトが、異動してきたら耐えられず、4ヶ月経たないうちに辞めた。
わかっていても、会社は辞める彼女を引きとめなかったし、社員はそのままだった。
でもそこに別の社員が異動してきて耐えられなくなったときは、異動させた。

社員は守られている。
社員以外は守られていない。

そんな思いを強くしているときだった。
自分で派遣を選んだのだから、文句は言えない。
分かっているから人には言えない。

激しい気持ちではなかったんだけど。
まあ、そういうため息が出る時期ってあるものだ。

わたしとしてはいつか辞めたい。できれば近いうちに。
でも辞める算段はつかないなあ、と前向きになり始めていた。
まだあまりポジティブではないが、冷静に考え始めることができただけでも、前向きである。

そんなとき、派遣の裏側を書くというブログを見た。
書いている人は、派遣会社の社員だと名乗っている。

派遣スタッフの条件のついての以下の文章――
分かっていたことだけれど、やっぱりね。

------------------------------------------------------------------
「仕事ができる優秀なスタッフはすぐ就業先の社員の無能ぶりを指摘し喧嘩する。実力があるからコミュニケーションを疎かにする」

「無能なスタッフは、生き残る為にコミュニケーションを大切にする。だからクライアントから可愛がられる」

結局、無能なスタッフの方が高く評価され、優秀なスタッフは排除される。
------------------------------------------------------------------

引用元
http://bakurohakengyoukai.blog.fc2.com/

------------------------------------------------------------------

今では、わたしを担当している営業社員の気持ちまでこんなふうだと想像するようになってきた。
何かわたしが言う。
それは文句ではない。でも相手はこう考えているだろうな、と想像してしまう。

ブログを読んでいなかったとしても想像するだろうけど。

「やっぱりね」と思う。
求められているのはそこなんだよね。

もし当たった上司が厄介な人だったら、奴隷になって耐えられる――いや、耐えざるを得ない生活かかってる凡人よね。

コミュニケーションスキル

わたしはコミュニケーションスキルが高い――と評価されるほうだ。
まあ、すごく高いというわけではない。でもまあまあ高い。

それについて、第二の職場の人事の考えが分かった。
長くいるので、「風の噂」というのが聞こえてくるのだ。

わたしの上司のもとでは、何人かのアルバイトさんが人事に文句をぶちまけた挙句、辞めていった。
文句をぶちまけなかったとしても、会社内の多くの人が対立を知っている、ということも多かった。
文句をぶちまけはするが辞めはしなかった人は、他の部署に移ることもあった。

「あの上司の下に入る人は、とにかくあの人とうまくやってくれるということが一番」
他のことは二の次三の次なのだそうだ。

だからわたしが、出てほしいときに第一の職場を優先して出られなくても、誰でもできる仕事内容であっても、ずっと前の時給が今より高い時代に入ったので経費がかかっても、それでもわたしを雇ってくれるのだ。

「あの人とうまくやってくれることも、仕事の一部」なのだそうだ。

これが一番大きなことだったけれど、その他にも、第一でも第二でも些細なことがあり、考えさせられた。

派遣スタッフにとっての「コミュニケーションスキル」って何だろう?

それってつまり、我慢のような気がする。
耐えがたきを耐える能力だったり、嫌なことを流せる能力だったり、イライラしても上司や周りの人にそういうところを見せない能力だったり。

上司とコミュニケーションをとり、相手に自分の言いたいことをうまく伝える――それもコミュニケーションスキルかもしれないけど、そんなことは望まれていない。
意見なんてしなくていいのだ。上を立てて、上に従い、従えないときでも従える。それこそがコミュニケーションスキルらしい。

人の気を悪くさせないこと、いつも周囲から好かれる存在であること。
――でもそのためには、自分の考えなんて言っちゃいけない。
ちゃんと明るい笑顔のイエスウーマンでいなきゃいけない。

そう思わされたのは極端な上司との衝突があったからだけれど、でも思えばどこでもそうだと実感したのだ。
第一の職場でも、人のこととしても、自分のこととしても、そういったことはあった。

以前、仕事のためにビジネスマナーの検定を受けたことがあった。
そんなに難しい試験ではない。

問題集を見ていると、「これこれのシチュエーションのとき、どうすればよいか」というようなものも多く、名刺の出し方や受け取り方、席次のことだけではない内容だった。
で、結論を言うと、「ビジネスマナーとはひと口で言うと、上に従うこと」なんだな、と。

従うべきときというものがあり、従えない人というのもいて、きちんと上に従うことは大切だと思う。
でもビジネスマナーの教則本によれば、会社においては「従うべきとき」オンリーのようだった。

今はやりの「コミュニケーションスキル」と同じ。

ちょっと偏った見方なのだけれど、たぶんそう思わずにはいられないほど、わたしは追いつめられたのだろう。
ああ、本当に、コミュニケーションスキルなんていらない仕事に就きたいものだ。
無理だと分かっていながら、ついそんな夢を見る。

そんな切羽詰まった時期って、あるものだよね、誰でも――

奴隷の気持ち

何がどうしてどうなったなんて、細かいことは言わないことにしようと思う。
わたしではうまくまとまらず、説明しようとして泥沼化して長くなるだけだ。

とにかく、景気は低迷していた。
そしてわたしのような単発派遣は、非常に働きにくいように法律が改正された。それも何度も!
「派遣スタッフの待遇改善のため」と称して、企業が単発派遣を雇いにくくなるように法律がどんどん改正され、むしろ正規雇用が固く強く守られるようになった。

去年までの3年ほどは、わたしにとっては、選択肢が消えていった年月。
そして、景気低迷で企業が苦しくなるということは、派遣なんて雇う会社も少なくなるということ。今いる社員が余分に仕事をすれば済む。

派遣単発時代編のとき何度も言ってきたことだけど、わたしにとっての単発の仕事は、精神的にもメリットがあった。
「気が楽」だったのだ。
嫌なことがあっても、「でもどうせ10日間だし」「明日で終わる仕事だし」と思える。

単発ではなくても、かつて派遣で働いていた友人は言っていた。
「正社員じゃなくていいんだ。責任をとらなくていいしさ。
派遣なりに働いておくので、嫌だったらクビにしてください、って思ってるし」

わたしはそこまでは思っていなかったが、派遣として働くのは、多少は気楽だった。
同じ程度の時給がもらえる仕事は、他にもあるかもしれない。そこに移ればいい。
どうせもともと、正社員が40代にもらっているような給料はもらっていない。
転職したって大差ない。

でも不景気や改正された法律によって働く場が減ると、そうも言っていられなくなる。

わたしは仕事をしなくてもいいわけではない。
わが家の家計は、わたしがある程度働かないと成り立たないからだ。
「趣味のお金くらい自分で出したいし」「ずっと家にいたら気持ちがふさいじゃうし」という高尚な理由で働いているわけではない。
生活のためだ。

――つまり、仕事を辞めるわけにはいかないのだ。
そして選択肢が減ったということは、今の職場を辞めるわけにはいかないということだ。

次に来るのは当然、「我慢」だ。
ときには「ならぬ堪忍、するが堪忍」だ。

わたしはダブルワークをしていて、やりたい第一の仕事では収入が足りないので、第二の仕事で穴埋めをしている。
第二の仕事はただの事務だ。それも雑用もいいところ。

できれば慣れたところがいいけれど、どうしても嫌なら辞めようと思っていた。
前みたいに単発派遣の仕事をしていくこともできる。
――と思っていた。もう今ではそう簡単ではなくなったが。

第二の仕事の上司に当たる人は、悪い人ではないが、よくアルバイトさんが辞めたりしていた。
または耐えきれなくなってストレスを訴えたり。それで他の部署に移った人もいた。
当の上司はもちろん、そんなこととは思っていない。
「彼女はこういう事情があって辞めた」「彼女が異動したのは会社のこういう事情だ」と思っている。
表立って衝突したアルバイトさんのことは、「悪い子じゃないんだけど、こんなところがあったわ」と考えている。

上司は悪い人ではない。ただ・・・・・・まあ、いろいろあるのだ。

わたしがこの人の下で長く続けてこられたのは、仕事上ではあまり関わらないからだ。
わたしは黙々と決まった仕事をする役目で、進捗については、この上司以外の直接業務に携わっている人とやりとりをしていた。

それが組織改編などもあって、わたしは直接この上司と関わらなくてはならなくなった。
当然わたしはストレスが増えたが、まさにその頃、わたしの選択肢は相当狭くなっていた。

辞めたいと思っても、辞めた後の展望が開けないので、我慢するしかない。

笑顔なんて出ないと思うときでも、必死で笑顔をしぼりだしてその上司に話しかけるときもある。
相手はいくらでもこちらの契約を切れるのだから。

わたしはそれまで、自分は幸せだと思っていた。
派遣スタッフをしている人は、よくブログなどで抑圧された日々を語ったりしているからだ。
たまたまゆとりのある会社に入ったおかげで、受難の時代にあっても気を楽に持って仕事ができた。
ラッキーだと思っていたのだ。

だけど、ここに来て、ふと「なんだか奴隷になった気分」と感じる日があるようになった。

むかついてもイラついても、我慢して無理な仕事をするだけではなく、「有難いです」とへつらわなければならない。
こちらはへつらっているだけなのに、相手は「私がいい上司だからこんなに感謝されるのよね」と言わんばかりの態度。

本当に気づかないのだろうか?
――不思議に思うときもあるけど、でも気づかれては困るのだから、これでいいのだ。

派遣は奴隷なんだ・・・・・・

「奴隷」という言葉は響きが強いので、誰かに言うと「そんな――」と呆れられる。
自分でも、この程度で奴隷だなんて、本当に奴隷だった人には許せないだろうと分かっている。

でもどうやら、その言葉が一番ぴったりくるらしく、どうしても頭に浮かんでくるのだった。

わたしなんて、実はたいした苦労をしていない。
それはいくつかブログも読んだことがあったので、分かってる。

でもやっぱり、あの言葉が頭に浮かんでくる。

今になってわたしは、奴隷の気分を味わっている。
これまでラッキーだと思っていたのに、逃げ切れなかった。

「派遣なんてするものじゃないと、つくづく思った」とずっと以前に言っていた友人がいるが、今さら彼女のそのときの気持ちが分かったような気になる。

どうかもうこれ以上ひどくなることがないように――
政府も変わったのだから、少しでもいい方向に変わってくれるように――

切実に思うのである。

「夢ってある?」

「夢ってある?」

会社帰りに、今は違う部署になっているかつての同僚と一杯やっていたら、彼女が言った。

「夢」――自分に関して使ったり使われたりすることが、最近めっきり減った言葉だ。

この同僚、仮に荒川さんとしておくが、荒川さんはわたしより3歳ほど年下だった。
だがまあ、どちらも40を過ぎてしまえば、あまり違いは感じない。
相手は感じているかもしれないけど。

荒川さんはアルバイトだが正社員並みの仕事をしていた。
それが認められて、またちょうどそのチームの社員メンバーが休職することになったこともあり、社員登用の話が出ていた。

話が出てから、登用試験や面接など具体的なところに行き着くのに、半年以上かかっていた。
その間に、いつも子供を見てくれているお姑さんが深刻に体調を崩して入院したりして、社員としてやっていけるかどうか危ぶんだ時期もあった。
業務の性質上、遅刻したり早退したりが難しいし、出張も多い。
アルバイトなのにそういう業務を社員さんたちとこなそてきたのは、お姑さんが子供を見てくれたからだ。
何もこんなときに入院しなくても、という悪いタイミングだった。

そんなこともあり、また長く待たされたこともあり、大喜びで将来を考えているわけではないようだった。
とは言いながら、やはり評価されて社員となるのは悪いことではない。

つまり、嬉しくないわけではないが、舞い上がってはいない、という感じだった。

だから「夢」について落ち着いた口調で聞かれたとき、違和感は覚えなかった。
「絶対ビッグになってやる!」という年代はとうに過ぎたけど、彼女なりにもっと現実的な夢があるのだろうと思った。

何も答えられなかったけど、夢がないわけじゃない。

できればこの荒川さんと働いている会社をわたしは辞めたいし、今年いっぱいで辞められたらなあと思っている。
経済的に難しいだろうから、今年いっぱいでは辞められないと思うけど、辞める夢は持っていたい。

今はブログが楽しいので、2つ3つやっているブログをこれからも続けて、面白いと思って継続して読んでくれる人が増えたらなあ、という夢も見てる。

家族が長生きしてくれて老後が寂しくないといいとも思っている。
でも介護をする自信はないから、自分にしろ親にしろいわゆるピンコロが幸せかなあと、想像を逞しくしたり。

夢はかなわないこともあるって知ってるから、控えめな気持ちで夢見てる。

荒川さんだって、「絶対部長になりたい!」とか夢見てはいないだろう。

わたしが以前ネットで日記を見ていた若い男の子は、30までに絶対部長になる!と言っていた。
30代のうちに社長になる!と。
彼は当時若くて、会社に入りたてで、夢も希望も大きかった。
やがて「早くチーフになりたい」「自分のチームのチーフをとても尊敬している、ああなりたい」と語るようになった。
いつか出世するためにゴルフを練習し始め、「ゴルフがうまくなりたい」という夢も加わった。
「尊敬しているチーフを自分が支えられるよう、もっと頑張りたい」「後輩に慕われる人間になりたい」と言い出すようになった。
あれから何年経ったろう。今は彼もチーフになっているのかもしれない。

先日、仕事で知り合った若い男の子は、本当にまだ若かった。
「やっぱり音楽が好きだから、音楽で頑張りたい」と語っていた。
「夢じゃないんですよ。夢は見るだけだから。だから目標って言ってるんですよ」

分かるよ。
わたしも若い頃には「夢というのは見るだけで終わってしまう。××と言おう」とかいうセリフを、なるほどと思って聞いたりしたもの。
「目標」だったか、何だったか忘れたけど。
あなたにはわたしの若い時なんて、想像できないだろうけどね。

「××ってバンド、知ってます? あそこのギターの人が、僕の通ってた教室の講師だったんですよ。
先月、その人のライブに行ったら、おまえちょっと来い、って言われて、言ったら、おまえ歌え、って言われて、で、歌ったんですよ」

それはすごいことなんだろうね。そうして熱く語るからには。

「来月、うちのバンドの初めてのライブがあるんですよ。僕はこう見えて、ギター&ボーカルなんです」

歌っていると楽しいだろう。ギターを弾いていると楽しいだろう。
でもそれだけじゃない。いつか得たいと夢見ているのは、大きな会場でたくさんの人を沸かせるライブ。
人々が感動し、若者が憧れる、ビッグバンド。

何年か前に会った男性は、もう20代ではなかったから、「音楽が好きだから」とライブをやっているけれど、ビッグになりたいようなことは言わなかった。
なれたら嬉しいだろうけど、たぶん必死に「ビッグ」を追い求める時代はすぎていたから。
――たとえば、もし偶然が重なって大ヒットになり、たくさんのファンがつき、有名なアーティストになったら嬉しくないわけじゃない。でもそれを夢として語りはしない。

もう大きな夢を語って「そうなの、頑張ってね」と温かく言ってもらえる年代は過ぎたと知っているのだ。
小さなライブハウスでライブをして、それも一人でステージをするのではなく、何人かの出演者の中の一人で、そして終わったらブログに書く。
「やっぱり音楽っていいなぁ」「自分には音楽しかない」「自分の拙い歌でも、お客さんの心に届いていたらいいなぁ」

彼もわたしも知っている。
あまり大きな夢を語るより、小さな夢を語って、小さく満足して、大きく感謝していたほうが、聞こえがいいことを。

大人の世代になってしまった人は知っている。
自然に悟ったか、否応なく悟らされたかは人によるけど、大きな夢は見てもかなえるのが困難だということ。
大きな夢は見るにもエネルギーがいること。
小さく満足して、小さな実現に「自分は幸せだ」と心穏やかそうに言ってみせるほうが楽だし、響きがいいということ。

心のどこかに、密かに等身大でない夢が隠れていたとしても、それは本人にさえ自覚できないところに隠れてしまう。

「夢ってある?」
突然の、久しく聞かなかったストレートな質問に、そんなことを思わされた。

「平均ですよ」

白髪が多くて困る。
もうびっしり白髪だ。
そういえば母も40代の頃にはびっしり白髪だった、とため息と共に思い出す。

わたしはもちろん染めているけれど、(自然のままの自分で仕事に行くなんて勇気はないから)、髪って伸びるものなのである。
1ヶ月もしないうちに、髪の分け目部分が白髪だらけに!

なんとか白髪を減らしたい、それにはヘッドスパなどでマッサージしてもらい、血行をよくするのがいいかも。
そう思って、ずっと昔に美容室のヘッドスパに行ったことがある。
ただ、ヘッドスパというのはカットもカラーもしないのに、それなりの金額するものなので、月に2回通うなんてことはできない。
結局行ったのはその1回と、今通っている美容室の初回お試し価格の1回にとどまっている。

自分で頭皮をマッサージしてみることもある。

40代50代ともなると、とても幸運な人以外は皆染めているのではないだろうか。
白髪を染めていないとどうにも格好がつかない。なんだか老けて見えるし、油断すると生活に疲れているようにも見えてしまう。
職場の人に聞くと「もちろん染めてるよ~!」「白髪すごいよ。これは染めてるの」と言う。

でも気づかなかった。ということは、まめにお手入れしているってことなのかな。それとも目立たない量だとか、目立たない位置だとか?

わたしももうちょっと数が少なくて、目立たない位置にあったらいいんだけど。

白髪のことと、髪が薄くなったことは、日頃からの悩みだ。
そう。やはり中年になって、かつてよりだいぶ薄くなったのである。
他人様はまさか言わないが、家族は言うし、自分でもそう思う。

このことに関して話しだしたら止まらない。

最近また頭頂部が痛いくらいに固まっているので、ヘッドスパを探して行ってみることにした。
なんと2つほど離れた駅で、専門店で全個室かつ安いというお店を発見。
ゴールデンウイークにお金を使わなかったから、このくらいの贅沢、してもいいよね?

出かけて行くと、専門店なのでカウンセリングをしてくれた。
「今感じていらっしゃる髪のお悩みとか、ございますか?」

安いといっても千円二千円ではないので、正直に伝えて最大限の効果を引き出してほしい。
前述の白髪や薄毛のことを話す。
ヘッドスパというと、頭皮のマッサージより美しい髪にするヘアエステのコースもあるので、付け加えておく。
「髪ももしかしたら傷んでいるかもしれないですけど、でもそれにはあまり関心はなく、とにかく頭皮の血行をよくして白髪や薄毛が少しでも改善されれば、と思っているんです」

「ではまず頭皮や髪の状態をチェックいたします」「ヘッドスパはよくいらっしゃるんですか?」「そうですか。では専用の機械で頭皮チェックをなさるのは、初めてでいらっしゃるんですね」「2箇所ほど、頭皮のお写真をお撮りしますね」

カウンセリングとやらはどんどん進んで、わたしは目の前の小さなモニターに映し出される頭皮のどアップを見た。
なんだか髪がまばらに見えるけど、これは拡大してるからよね?

「それでは、画像を比較しながらご説明いたします。
こちらは40代の一般的な頭皮です」

――ふうん。

「こちらは○○様の頭皮です。髪の生え具合、こちらとあまり変わりませんよね」

・・・・・・

「髪の量は平均ですよ」

ふうん・・・・・・

「大丈夫です。平均ですよ」

何か返事が必要かと思ったから、「そうなんですか」みたいなことを言っておいた。
でも正直、全然嬉しくなかった。

「あなたの髪の量は40代の平均と同じです」と言われても、嬉しいとか安心したとか思えない。
ショックでもないけど、でもどちらかというと、「やっぱりね」というガッカリ感。

しかしスタッフの若々しいお姉さんは、「良かったですね」と言わんばかり。
そりゃ「薄くなったと悩んでる」と言ったし、平均以下だと言われなくて良かった。
でもなあ――

たとえばあなたが今20代で、骨の健康とか内臓年齢とか調べてもらって、「20代の平均ですね」って言われたら、良かった~!と思うかもしれない。
でも想像してみて?
あなたが80歳になったとき、「骨の丈夫さも80代の平均と同じくらい。内臓も、うん大丈夫、80代の内臓だね」って言われたら、「良かった~!嬉し~い!」と思う?

と、お姉さんに言いたくなったが、やめておいた。

まあ、わたしなら、そう言われたら「やっぱりね」と特に喜びもしないだろう。
「あなた90代の体になっちゃってますよ」と言われたらショックだけど、だからって80代、平均というのが嬉しいわけではない。

でももし「いや、あなた、お丈夫ですね! 60代の体ですよ、これは」と言われたら?
嬉しいに決まってる。

まして美容とか若さなどのこと。
美人でもスタイル良くもないわたしでも、中年になって年相応を喜ぶわけない。

わたしは「40代の他の人と比べて自分は薄毛なのでは?」と悩んでいたわけではない。
自分の若かった頃より薄くなってきたのじゃないかと悩んでいるのだ。

「いえいえ、まだお若いですよ。30代の平均と同じくらいですよ」
これなら絶対喜んだろう。

40代の平均って、41も49も計算に入れるのだろうから、45くらいってことだろうか?
やっぱり嬉しくないなあ。
わたしは年相応に40代並に薄くなってるんだなあ。

でもこの若いお姉さんには、説明されても実感はわかないかもそれないな。
分かってくれたとしても、それは、26歳の女の子が「25過ぎたらもう肌ボロボロ!」「分かる~! 16の子なんか見るとすっごい綺麗で~!」と言ってるような理解に違いない。

まあそれはいいとして、とため息をつきながら考える。
どうにかならないかな、この白髪と薄毛?
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。