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あとがき

私的な記録におつきあいいただき、ありがとうございました。

最近になってよく、「風化させてはいけない」という言葉を聞きます。
でもわたしの小さな体験は、風化させてはいけないほどの記憶ではありません。
だから、少し気楽な気持ちで書けると思いました。

そう思うのは、時が経って、やはり傷痕も爪痕も風化しているためかもしれません。
今でもその渦中にいる人にとっては、現在進行形の、風化など考えられもしない傷でしょう。
けれど、風化しつつあるからこそ、「風化させてはいけない」という言葉が多く出るのだと思います。

時は偉大でもあり、無情でもあります。
傷を癒してくれもするし、癒えていないのに風化させもします。

あれほど忘れることはないと思った記憶なのに、細部が違っていることが過去の日記を見ると分かります。
だから若干つじつまの合わないところもあると、後から気づきました。
たとえば地震直後の勤務状態についてなどです。一日目は行ったのか、行かなかったのか?
何日行ったのか? 一度は行くのを諦めて、確定申告に行ったはず――(そういう時期でしたから。)
記憶のどこかがおかしいようです。
――でもそれはそれとして、そのままにしておきます。

これ以上記憶が薄れていかないうちに、まとめておこうと思ったのは、遅かったくらいのようです。

こういうことをテーマにするのは、臆病者のわたしには冒険でした。
あたたかいお心で見守ってくださったことに感謝します。

ありがとうございました。
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あの日の東京:記憶の彼方

子供の頃、関東大震災の話が怖かった。
マンガやドラマに出てくるのも、祖母の体験を聞くのも、歴史の教科書などで見るのも。

そんなことがあったらどうしよう。
祖母は「竹林に逃げた」と話していた。
竹は根がしっかりと張っているから、地震のときはいいのだという。
でもうちの近くに竹林なんてないよ、と心配したりした。

でもそんな歴史的な何かが、たまたま自分の生きている間に起こるわけがない。
そうそうあることじゃないのだから、平凡な時代に生まれた者はそんな大事件に出会うことはないだろう。

そう考えていたけれど、自分の生きている間に阪神大震災は起こった。
中越の大地震もあった。

そして東日本大震災も起こった。

未曾有の災害ではあったけれど、2年半も経って、記憶は生々しさがなくなっている。
それはわたしにとって、あの後の2年が、わたしなりにいろいろあったからだと思う。
人生が続いていれば、いくらでも問題が起こっていくので、そちらに気をとられてしまう。

震災でかすり傷ひとつ追わなかった夫の実家では、1年経ったとき入院騒ぎ。
あの大きな地震も、その後の混乱も、何事もなく元気に乗り越えたのに――とそのときは思った。
入院、手術、リハビリ、介護、震災よりもこちらのほうが、当人や周囲にとっては余波が大きかった。

震災のときは、体に傷を負わず、家も壊れなかったので、必死になるというより混乱や不安ばかりだった。
それに比べて、ほかの誰にも関係ない世間的には事件でもないことでも、当事者となると大きなものとなる。

さらにそのあと、わたしの実家でも騒ぎがあり、それからまたあり――

人生は続いていくので、つい昨日のことのように思えたものも、少しずつ遠のいていく。
「思い出」「記憶」の領域にしまいこまれていく。

もしこの2年半、何も変わりなく、静かに暮らせていたら、もっと記憶は鮮明だったと思う。
でも山も谷もあって、年齢からして谷も深くなりがちなので、気づくと少しばかり記憶の彼方に移動していたのだった。

あの日の東京:電車不安

いろいろなことが落ち着いて、もうすっかり日常が戻ったように見えていた9月のある日。

「台風がやってくる」とずっと言われていて、前日から「明日はどうなるのか」とみんなが心配していた。
相当すごい台風がやってくる、と前評判がすごかったのだ。

第一の職場の場合、代わりがいないので、休むとか遅れるということが厳禁。
少し早めに出たほうがいいかな・・・・・・

と思っていたが、結局、それほど早くもなく、いつもと同じくらいの電車に乗り込んだ。

乗り込んだところで第一の職場から電話が。
通過電車待ちでまだ発車していなくて、その車両にはわたし一人だったので、そのまま電話に出た。

第一の職場のこの日の仕事の担当事務の人からだった。
「今日の受講者さんには一応待機してもらうよう連絡したんですけど、午後からすごくなるっていうことらしいので、たぶん通常の生徒さんたちも午前で終わっちゃうと思うんですよ」
――第一の職場は公的な色合いが濃く、受講者に何かあってはいけないということで、「警報が出たら中止」というルールがある。
学校みたいに通っている人たちが多いのだけれど、大雨警報とか強風警報とか「警報」が出たら、その時点で学校は閉鎖。全員帰される。
注意報だったらそのままだし、警報が出ても働いている人たちは帰らない。

ただ、その日のわたしの仕事は短期間のもので、受講者さんたちはいつもの生徒さんではない。
「今日は中止にして、その分どこかで補講を組みたいのですけど、予定はどうですか?」

「今日は中止」というので、電車が発車しないうちに急いで降りて、家に帰った。
そういうことなら第二の職場に、「今日は行けます」と連絡して仕事をするべきだろうか?
どこかで補講を組むということは、その日はまた第二の職場は休まなければならないということなので、今日行って仕事を進めておいたほうがいいかもしれない。
――そんなことを少しは考えたけれど、おとなしく帰ることにした。

帰って正解だった。

自宅の中でぬくぬくとしていて知らなかったが、ネットニュースを見たらわたしが使っている路線は全線止まっているという。
何時頃止まっているのか、運行停止した時間を見てみたら、ぎりぎり第一の職場から帰れなかったと思われる時間だった。

運行情報サイトや鉄道会社のサイトでは、「振り替え輸送を行っております」と出ているけれど、わたしの家までは振り替える路線もバスもない。
それは、3.11の後、また電車が止まったらどうする?というのを検討したので、分かっている。
第一の職場からは帰れない。
足止めだったに違いない。

第二の職場に行くときに使う路線も調べてみた。
「**線は17時11分から全線で運転を停止、17時33分から**~**間で運転を再開」

第二の職場に向かわなくて本当に良かった。
**~**間しか運転していないのでは、まったく帰れない。
その先の路線は全線停止しているし――せめてもっと先まで行ってくれればやりようもあるけれど。

しかし、ほとんどすべての電車が止まっていたのだった。

3.11の再来――東京で地震にあったわたし自身にとって、あのとき一番強烈だったのは電車が全部止まったことだ。
でも今回は、この暴風の中歩いて帰るなんて、ちょっと無理。

あのとき判断が遅れた会社もあったので、多くの企業が早めに終業した。
しかしそれが裏目に出て、早めに出たら駅に着いた頃、電車が停止。暴風雨で今さら会社にも戻れず、そのまま駅に足止めとなった人も多かった。
また、途中までは帰れたけれど、そこから先は電車が止まってしまって帰れなかった人もいた。

「あんな暴風雨の中、歩いて移動なんてできないから、もう店に入って飲んでたわ」
という話も聞いた。
「たまたま講習会を受講していて、一緒に受けていた方たちと食事にいって、はからずも楽しい時を過ごせた」
と言った友人もいた。

あの日は傘もさせないような暴風だった。
店に入るのが賢明だ。
でもどの店も混んでいただろうから、判断は早くしないといけないかもしれない。
また、栄えているところでなければ店もなく、雨風をしのぐのも大変だったかもしれない。

わたし自身は、第一の職場の事務の人に感謝だった。
そういったことを身を持って体験せずにすんだ。

この新たな電車危機のときは、誰もが行動が早かった。
会社や自己で判断して、早くに会社を出た人が多かった。
地震のときの運行停止が身にしみていたためだと思った。

電車は生命線、これが動いてくれないと、大変なことになる。
みんなあのときの思いを忘れてないんだな、と思った。

あの日の東京:安定

電車は運行状態が固定されてきた。
大混乱だった運行が定まって、とりあえず7割とか8割とかの運転になり、それにみんなが慣れていった。
7割しか運転しない、8割しか運転しないというのだから、この運行形態になった最初の頃は、ラッシュ時は行列に並ばないと乗れないほどだった駅もあった。

やがて状況に合わせて、なるべく均等にならされてていった。
もしかしたら、各自それぞれの仕事や会社に合わせて、自己判断で時差出勤をしていたのかもしれない。あるいは会社判断で。
それまで空いていた時間帯も混み始めたけれど、今まで乗れなかった時間帯は乗れるようになった。

スーパーの陳列棚も、少しずつ安定して商品が置かれるようになっていった。
これも土地によるようで、わたしの家の近所では家庭が多いからか、なかなか品薄は解消されなかった。
ほかで見かけるようになってもトイレットペーパーはなかなか見かけなかった。
女性の必需品もなかなか復活しなかった。

放射能汚染の問題は、なかなか落ち着きを見せなかったが、物資は復活してきた。
ミネラルウォーターを売っている会社は、なんとかして供給を増やしていたし、新しい業者も台頭していた。
水サーバーを送ってくれる業者たちだ。
第二の職場で、あまりそういうことを話していなかった同じチームの派遣さんが、「水サーバーを注文したんですよ」と言っていた。
気にしていないように見える人でも、そういった手段を講じているんだな、と思った。
「その会社では、NASAでも使っているようなろ過装置を使っているので、放射性物質まで除去するんだそうです」
――それ、つきつめると、その会社のろ過工場はものすごい放射能ってこと?
だって下水処理場などには高濃度の放射性物質がたまっているという話だったのだ。同じ理屈じゃない?

水については、水道局もサイトなどで検出された数値を公表。
アドバイスもしてくれていた。
浄水場では不検出が多くなっていたが、水というのは浄水場から蛇口に届くまで時間がかかるものなので、蛇口調査ではまだ検出されていた。
アドバイスは「水の取り置き」。
ペットボトルなどに今日の水道水を汲んでおき、今日の数値を書いておく。
明日もし今日より数値が低ければ、明日の水道水を使って、今日の分は捨てる。そして明日の水を汲んでおく。
もし明日のほうが数値が高ければ、取り置いた今日の水を使うのだそうだ。

ミネラルウォーターにしても、安心できないこともあった。
どこの水かということだ。
ある大手飲料会社は、利根川水系の水を使って製品を作ることは今後しない、と言ったとか。
もともとあまりミネラルウォーターで福島や関東の水というのは見かけなかったから、それほど影響はないのかもしれない。

海では魚から基準値以上の放射性物質が検出され、漁業が打撃を受けた。
誰かが言っていた。「いつ通ってもすっごい並んでるお寿司屋さんがあったんですが、昨日は並んでなくて呼び込みしてましたよー」

そういう追い打ちが何度もあったけれど、日常は戻り始めていた。

地震の日、床に落ちたわたしのパソコンのモニターが、1ヶ月近く経ってついに壊れた。
ドカーンと落ちたらしいから、あの後も使えたほうが驚きだったが。
その週のうちにテレビも壊れた。
どちらも相当年代物だったので、買い替え時ではあった。

日常が戻ってきたけれど、その後もしばらく、ついしてしまうことがあった。
家でトイレットペーパーを使うとき、かなり倹約して使うこと。

それから出かけるとき、財布に1万円札が2枚くらい入っていないと落ち着かないこと。
以前は「持っていると使っちゃうし」と思って、なるべく補充しないようにしていた。
しかし「タクシーで帰れるくらいは持っておきたい」と思ってしまう。

水や非常用食料、カセットコンロなどを備蓄しておくようになった。

そういった習慣も、時が経って喉元を過ぎた今は、なくなっていることが多い。

この年、4月だったか5月だったかに区議会選挙があった。
少し前までの選挙では、女性候補者は軒並み「待機児童をなくします」と訴えていた。
でもこのときは、「防災都市をめざします」が多かった。

あの頃は「防災都市をめざす」政治家がとても多かったけれど、これも今はなくなったようだ。

あの日の東京:第二の職場でのその後

第二の職場でのわたしは、厳しいスケジュールになった。

地震以降一連の混乱の中で、チームを統べる管理職である目黒さんは、下の者からの評価が下がった。

最初は地震の当日、若いアルバイトの葛飾さんを励まそうとしてか、「こんなのへ~っちゃらよ、何を騒いでいるの?」風にふるまって、場違いになっていた。
そういう態度もひとつの方法ではあると思うのだけれど、このときは冗談めかした態度より、頼りがいがありそうに見える毅然とした態度のほうが効果的だったと思う。

次は原発事故が収まらなかった期間、わたしと同じくらいの年のアルバイト、板橋さん。
それほど重要な業務でもなく、電車などの混乱を押してまで出勤しなければならないのだろうか、と思う人だっていた。
板橋さんが望んだのは、「うちの業務は緊急でもないし、今週1週間は全員休みにしましょう」という決断だった。「上にも話して了解を得たから」みたいな。
中には「お給料がほしいから出勤したい」と思う人もいるかもしれないけど、板橋さんはこんな事態になってまでアルバイトの賃金が必要な人ではなかった。
でも目黒さんは、またしても「明るく、冗談が通じる上司」を演じて逆効果になった。
「ほかの部署では全員がお休みになっているところもあるんですね」
「休みたければ休んでもいいのよ~」
「私、そんなこと言ってませんよね!?」

これ以降、板橋さんは通常の業務にすっかり戻っても不信感が消えず、これまでは許せたことも許せなくなっていった。
「どうしてそういうやり方をするの? おかしいでしょう?」「どうしてこんなことを言うんだろう? 変でしょう?」
――そして辞めていった。

わたしは、もともと3月後半は重要な業務(の一端)をすることになっていた。
大げさに言えば「社運をかけた」インタビューのテープ起こしを4件することになっていたのだ。
目黒さんからは、「4月中旬までにほしい」と言われていた。

「3月の中旬くらいから順次インタビューをしていくことになってるんですよ。
この間の座談会に来ていた**さんと**さん、**さん、**さん。
今度は座談会じゃないから、その場で記録をとる必要はないと思うの。
録音を渡すので、テープ起こしをしてもらいたいんです。
いつものようにそのまんま入力する形式でいいって、分析してもらう専門家も言ってるから。
それを使って分析してもらって、その分析結果を元に社内で検討会を開くことになると思うわ。
これは会社の今後を考える会議になるはずだから、ここまでに起こしてというデッドラインがあります。大丈夫?」
「いつまでですか?」
「3月中旬から4月頭にかけてインタビューをして、報告書を出してもらうデッドラインは4月中旬」
「終わったものは順次お渡しいただけるんですよね?」
「終わってしまったら、テープは使わないから、すぐに渡せるわよ」
「それなら4月中旬までに終わると思います。4月には**と**の業務もしなくてはならないですから、終わったインタビューから順に早めに始めます」
「そうね~、そうして~」

こういう会話があったわけだが、インタビューが1件くらい終わったかというとき、東日本大震災があった。
残りのインタビューは延期。
余震も収まらなかったし、電力不足から電車の運行が混乱していたので、いつ頃実施されるか未定となった。

地震直後は電車に乗れず休んだ日が2日くらいあったし、その後は第一の職場に行っていて、第二の職場には行かなかった。
わたしは目黒さんに電話をして、業務の進行について聞いてみた。
「こんなことになって、どうせ全部の日程が一から組み直しだから、大丈夫よ~」と言われた。

第一の職場が終わって、第二の職場に行くと、インタビューは日程が組み直されたらしい。
「いついつ**さんが社に来てインタビュー、**さんはいついつ来ることになったわ」
そしてわたしの報告書のデッドラインはというと――
「4月中旬までにできていればいいわ」

インタビューの日程は延期で遅くなり、しかしわたしのデッドラインはそのまま。
終わるわけがない!

新しい日程でインタビューが行われる頃、別の業務2件も入ってくる。

「4月中旬」という言い方だが、実際は4月11日がいわゆる「デッドライン」だった。
12日から第一の職場期間が2週間続くのだ。「中旬」が終わってしまう。

確かに「どうせ全部の日程が一から組み直し」だった。
でも全然「大丈夫」じゃなかった。

これを目黒さんに言っても通じないだろうと思って、何も言わずになんとか終わらせた。
残業もできるだけしたし、業務中はトイレに行く時間も惜しんで仕事をした。
ペットボトルのふたを開けて、水をひと口飲む時間さえ惜しんだ。

社員で仕事がたてこんでいる人は、土日などに来てやっている会社だった。
でもわたしは派遣なのでできない。
根を詰めすぎて、肩も腕も凝って痛くなった。

目黒さんに終わったと告げるとき、どうしても言わずにはいられなかった。
「インタビューの日程が変更になってテープをいただくのが遅かったので、今日までに終わらせるのは無理かと思いました。きつかったです」
「いろいろあったわね~。でも終わったじゃない」

これは「でも終わったじゃない♪」という調子のセリフだ。
「あなたなら大丈夫だと思ってたわ、ありがとう」というニュアンスも、もしかしたら入っていたかもしれない。
入っていなかったかもしれない。

とにかくわたしも、目黒さんへの気持ちがだいぶ冷めた。

あの日の東京:普通の暮らし

普通の暮らしができると、気持ちは上がっていくと分かった。

普通に仕事に行って、普通に仕事をする。
普通にデパートに寄って、普通に春の服を見たり買ったりする。
普通に食事をしたり、お酒を飲んだりする。

問題がなくなったわけではないけれど、なんだか忘れちゃう。

これほど混乱した年に、第一の職場の事務の人は任用期間が終了となり、退職した。
年限は法律的に決まっていて、融通はきかなかった。
対応に追われ、毎日残業していた事務の人は、地震やその後の原発事故やら何やらを気にしていなかった。
忙しすぎて、いちいちニュースを追っていられなかったのだろうと思う。

第二の職場では、予定されていた業務が延期になったり、中止になったりしたから、暇になった人はよりダメージも大きかったように思う。

地震だけだったら、余震が少なくなればだんだんに普通に戻っていったはず。
でも爆発が黒煙が白煙がと事故が起こったり、水が野菜が肉がと汚染のニュースがあったり、せっかく少し忘れてもまた何かが起こってへこまされる。
「まだ終わってないぞ」と突きつけられる気がした。

避難している人や、仮設住宅に住んでいる人を考えれば、充分に「普通の」生活ではあるけれど――だから愚痴を言おうというわけではないけれど、完全にいつもの暮らしでないことは確かだった。

わたしの実家は茨城でも南のほうで、海辺でもないため、大きく被災はしなかった。
ある程度普通の暮らしが、割とすぐに戻ってきた。

でも母には「以前の暮らし」が戻らなかった。

母はかなり年だったが、近くの観光ホテルでパートをしていた。
朝だけのパートなのだ。配膳とか、そういう仕事。
母のような年配者が何人も働いている。母が「若い人たち」と呼ぶパート仲間は50代。
早朝4時くらいからで、9時や10時で終わってしまう仕事なので、若者はいない。

地震が起こって、1週間ほど営業中止が決まり、ずっと家にいた。
数日は停電やら断水やらもあったし、余震もあったので、年老いた祖母が心配でもあり、それはそれでよかった。
その1週間の間に、原発事故による汚染が広がり、茨城の水や野菜はよく報道に出ることになってしまった。
ホテルは再開のめどが立たず、母はずっと家にいることになった。

母は「いつもの暮らし」に戻っていないので、なかなか気持ちも戻らないようだった。

やがてホテルは、これを機会に「若い人たち」を残して老人を切ることにし、少ない人数のパートで再スタートを切った。
母たち年配者は、「辞める」と決意することもなく、なしくずしに解雇となった。
年配者の中でもリーダー格の人たちが、ホテルと交渉して半月分だったか、給料を出してもらってけりがついた。

気持ちのほうは全然けりがつかなかったが。
いつも不満や愚痴をよく言っていた仕事だったけれど、こんなときは「いつも通り」って慰めになると思った。

元気にいつも通りの生活をしたくても、それを許さない空気は全体に流れていた。
前にもグルメブログの人が、経済活性化のためと被災地支援のためにも、消費をしようと考えてせっせと外食をしていると語ったが、やはり「自粛しろ」というコメントもあったそうだ。
被災地のことを考えたら、楽しむなんてもってのほか、できるだけ緊縮財政でできるだけ粗末な暮らしをして苦労を分かち合うべきだ、というムードがあった。
一方でSNSでは仙台で被災生活を送る人が、「どんどん贅沢して、経済を支えてください、それが東北のためにもなる」と書いていた。
――それはそうなんだけど、実践は難しい。
節約して浮いたお金はすべて寄付するというわけでもあるまいし、無事な土地の人が緊縮節約生活を送ることがどうして重要なのか分からない・・・・・・と思っても、口に出せない空気を感じていた。
日本はいつも空気に支配される、と誰か偉い学者が言っていたけれど、本当だと思う。

第二の職場で震災後行われたインタビューでは、こんな思いを聞いた。

震災の後、あちこちで予定されていたイベントやパーティーが中止された。
原発事故で不安も渦巻いていたし、それに伴って計画停電、またそれに伴って電車の運休などがあったから、イベントを滞りなく進めるのも困難だった。
また、未曾有の災害となって、惨状が日々報道される中で、イベントをしますというのも非難を浴びそうだ。
協賛企業にせよ、主催企業にせよ、余計な避難を浴びたくない。開催できる状況であっても中止が相次いだ。

このインタビューの人は、それがとてもつらいと言っていた。
楽しみにしていたことが何もなくなってしまって、今や予定は空っぽ。
それが不安を煽り、空しくも感じるし、焦燥感も感じる。つまり、やりきれない気持ちになるという。

同じようなことを、わたしがよく見ていたグルメブログの人も言っていた。
カフェやレストランに出かけて、女の子同士ペチャクチャおしゃべりをしながらおいしいものを食べる、それが大好きだったのに、今は誘っても一緒に行ってくれる人がいない。

まず第一に、放射性物質が飛散したことを気にして、外食を控える人もいた。
そういうことを気にしなくても、電車が止まることを恐れる人は多かった。
余震はときどきあったし、またあの日のように帰宅難民になるかもしれない。

大好きなカフェめぐりやレストランでの食事の約束がキャンセルされ、行きたくても一緒に楽しむ人がいない。
そしてこの人も言っていた。「でもそんなこと言えないと思っていたから、それもつらかった」

誰もがあのあと、「普通が一番」と言ったけれど、それは口に出す出さないはあっても共通の思いだったのかもしれない。

あの日の東京:疲弊

少しずつ、心に疲れがたまっていった。

少なくともわたしの周囲では、東京では地震直後は前向きな人が多かった。
周囲といってもわたしの知り合いなんて、少ないが。

地震そのものの被害は大きなものではなかったので、悲観的ではなかった。
東京近辺でも大火災があって、ずっと燃えていたコンビナートもあった。
地面が液状化して生活に深刻な被害が出ている地域もあった。
でもそれはまだ一部で、やがて落ち着くと思っていた。

計画停電の話が出たときも、「当然だよね」「協力するとも」という反応だったし、仕事にしろ節電にしろ「今自分にできることを頑張ろう」という空気だった。
東京が元気でいなければ復興の助けにならない、という人も多かった。
不便なことがあっても被災地の苦労とは比べものにならない、ほとんど普通の暮らしができるなんて有難い、という人ばかりだった。

しかしそのあとの放射能漏れ問題、電力問題は長期化した。

電車は節電のため本数を減らして運転している路線ばかり。
いつもなら5本の電車に乗る人たちが、3本の電車に乗らなければならないとなると、時間帯によってはすぐに乗れず行列しなくてはならない。
中はもちろん、これまでにも増してぎゅうぎゅう詰め。
ぎゅうぎゅう詰め過ぎて、過重量で発車できず、ぎゅう詰めのまま10分15分停車していることもあった。
毎日毎日そういう通勤をして、疲れた人も出始めていた。

経済的に追い詰められる人も出てきた。
百貨店でアルバイトをして一人暮らしをしている友人がいた。
百貨店は通常21時くらいまで開けているのに、節電のために18時閉店。
シフトを組みなおすのではなく、単純に遅番の勤務時間を3時間カットしていた。(その百貨店では。)
友人は、遅番のほうが時給単価が高くなるから、と遅番主体にシフトを組んでもらっていたので、大打撃を受けた。

こういった経済的な問題では、「いついつまで」と見通しがつかないことが、焦りにつながる。
「とりあえず今日のところは17時閉店。遅番の人は17時で帰ってください」
「今日のところは18時閉店。遅番の人は18時で帰ってください。明日以降は未定。連絡します」
「今週はとりあえず18時閉店で営業することになりました。状況によって変わるかもしれません。どうなるか分からないので、シフトはこのままで、遅番の人は18時終業」

この調子で続いて行ったら、自分は来月生活していけるだろうか?
でも来週には戻るかもしれないし、今辞めたってすぐに仕事が見つかるわけではないし、でもこんなふうに3時間もカットされ続けたら厳しいなぁ。
悶々として、どうしていいか分からなくなる。

計画停電は夏も実施すると言われていた。
いつかは落ち着く、と思って耐えているのに、夏になってもまだ落ち着かない!?
不公平感も出ていたためか、それとも夏の電力需要が大きいためか、夏は23区も実施されるという。

計画停電は経済をかなり縮小させていて、それに伴って給料が減るから、さらにお金を使わなくなってもっと経済が縮小して・・・・・・と悪循環になる。
電気がないとこんなに逼迫する文明だったのかと実感した。

それから「放射能漏れ」と言われた事態も長引いた。
不安を漏らす人と、何も言わない人と、本当に気にしていない人と、それぞれだったろう。
この問題については、何か言うことがためらわれた。
心配する人は風評被害に加担する人という空気が作られていて、言いにくかったからだ。
でも今でも、「こんなに時は経ったけど、やはり子供には安全なものを食べさせたい」という人はいる。
そして何が安全かというのは、こんなことこれまでなかったのだし、政府にだってわかるわけがない。
「安全です」と言われたからといって安易に納得できない、というのがそういう人たちの気持ちだ。

「被害にあった方のことを考えると、こういう少しのことで文句を言ってはいけない」と暗黙のルールがあり、不安や愚痴は口に出せなかった。
だからわたしは心が疲れてきたように感じたけれど、ほかの人がどうだったかまではよく分からない。

ただ、電車の中で喧嘩する人なども増えてきていたので、やはり誰もが疲れているのかな、と思っただけだ。
友人もSNSで「ストレスが高じて、心がトゲトゲしてきた人を見かけるようになった」と書いていた。

もともと東京は根っから江戸っ子という人より、ボヘミアンな人が多い。
人のプライベートに立ち入らない。

福島のある町が「町全部で避難できるところを」と、避難場所を探している様子をTVで見て、同じことが自分の町内で起こっても、知っている顔などないなと思った。
町全部で避難したって、やっぱり知らない人だらけ。

そんなことが痛感されて、なるべく人との関係を密にしておこうと当時は考えた。
でもやはり、土地柄というのもあるし、なかなかうまくはできない。

あの日の東京:不安

小さい地震は断続的にずっとあった。
マンションが少しの揺れでもミシミシいうようになった気がして、心配になった。

揺れていないときも揺れているように感じるので、物や水の表面を見たりする。
「いつでも揺れてるように感じるよね」と言う人は多かった。

そして確かめて本当に揺れているのなら、震度を見る。家ならTVで、第二の職場ならインターネットで。
誰も口に出して大声では言わないけれど、震源も見る。「福島の原発付近でないように」と。
予断を許さない状況が続いていたからだ。

人によって温度差があって、気にしない人はまったく気にしていなかった。
たぶん、何の情報も見られないような職場で忙しく仕事をしている人は、気づかないから気にしていなかったというのがあると思う。
第二の職場ではインターネットに関して緩やかで、すぐに情報を見られるし、わたしは第一の職場の電車運行の問題で自宅待機が多かったから、気にしないというのは難しかった。

誰もあまり不安を口にしなかった。
疲れたとしても、愚痴も言わなかった。
合言葉は「被災地の方に比べたら」だったので、何も言えなかった。

この「何も言えない」「言ってはいけない」というストレスが、わたしにとっては大きかったように思う。
以前にわたしの講座を受講してくれた人のブログをときどき見ていたが、その人にとってはわたし以上にストレスだった。
詳しくはわからないけれど、もともとそういった不安に弱く、メンタルな問題を抱えていた。
疲れてしまって、体調をひどく崩したと書いてあった。

第二の職場では、目黒さんが本領発揮で、アルバイトの板橋さんのひそかな怒りをかっていた。

わたしは2日ほどは第二の職場に行けずに、そのあとはもとからの予定で第一の職場に行くことになった。
だからこの日々は聞いた話でしか知らない。

余震も原発事故も不安な時期だった。
「元気を出さなきゃ!」と思ったら、黒煙が上がったり白煙が上がったり。
「頑張らなきゃ」と思うと、今後の漁業や農業が懸念されるという話を聞いたり。
日常に戻りかけると何かが起こって、また不安になる。

第二の職場でも、製作や納品で「これまでこんなこと一度もなかった」という事態も起こっていると後から聞いた。
ただし、わたしがいたチームは、それほど重要な火急の業務は抱えていなかった。

板橋さんは不安感を感じていた。
でも頑張って職場に来て、仕事をしていた。
別に今日じゃなくてもいい仕事だけど、と思いながらも何も言わなかった。

ところが別の部署に用事があって行ってみたところ、緊急の業務がない人は休んでいることを知る。
それはもう部署として決められたそうだ。

板橋さんは席に戻ったとき、目黒さんに言った。
「部署によっては緊急以外休みにしてるところもあるんですね」
目黒さんは冗談めかして言った。
「休みたければ休んでもいいのよ~」

「私、休みたいとか、そんなこと言ってませんよね!? ただそういう部署もあるんですねって言っただけですよね!」

間が悪い。
こんな不安を抱えているときに、冗談だと受け流すこともできないし、ちょっとした言い方ひとつで臨界点に達する。

目黒さんは、わたしが実家の家族が救急車で運ばれたということがあったときも、同じような間の悪さを発揮している。
「これこれで、よろしければ明日、お休みさせていただきたいんです」
「ダメとは言えないから~」
――ダメとは言えないから?
「もし業務が期限に間に合わないということがあれば、ほかの人に頼んでいただけますか」
「あたし、あなたの業務、どこまで終わってるのか知らないから~」

そういう目黒さんなので、悪気はなくてもこちらに余裕のないときは、とてもカチンとくることがある。
結局、板橋さんはこのときの不信感から、会社を辞めた。
辞める前に、「あのときこう言われたんですよ。それでもう嫌になっちゃって」と言っていた。
辞めたのはこのことがあって、しばらくしてからなので、目黒さんは自分のせいとは思っていないだろうけど。

あの日の東京:閑話休題

こんな非常時にもいつもと変わらない様子の人もいた。

第一の職場の五ヶ瀬さんだ。
彼女は同じ仕事をする仲間の中で、一番後から入った人だった。

後から入ったので「ほかの人の穴を埋める」というのが多かった。
彼女としては頑張って、穴埋めではなくレギュラーとしてシフトに入りたいと願っていた。

計画停電が実施されたばかりで、どうなるかも不透明だった第一の職場、初日の前日。
勤務時間は1時間半に短縮された上、電車も定まらなかった。
彼女はとても遠いところから通っていて、2時間近くかかる。
「お休みしてもらってもかまいませんよ」と事務の人が言うと、ここぞとばかり頑張った。
「絶対行きますから、大丈夫です! もう親戚のうちに泊まる手はずも整えました!」と言ったとか。

事務の人はちょっと引いたと言っていた。
「そんなに頑張らなくていいですよ」と言っても、「大丈夫です!!」という言葉しか出てこないので、事務の人のほうから「明日はお休みで」と言ったそうだ。

五ヶ瀬さんは2日か3日は「お休みで」と自宅待機になり、わたしが一人で仕事をした。
少し電車の運行が落ち着いてからは来た。
2時間もかかるところからだと、万一また何かあって電車が止まったらと不安になりそうだが、平気そうだった。
こういうフラットさは、すごいと思った。

ちょうど前日水パニックがあったとき、五ヶ瀬さんと話しながら駅まで歩いた。

「昨日、帰ったときにはもううちの近所では買い占めは終わってましたよ。
自販機の水まで1本もなくて、わたしは今朝、珍しくお茶ですよ」
「そう~、それで、ヤフオクとか、すごいんですよ、今。
自分が今、関西とかに住んでたら、水を買ってそれをガンガン出品しますよ。
だって普通の値段で買って、12本5000円とかで売ってるんですよ。
なんとかして水を手に入れることができたら、売りたいな~と思って」

「うちのほうも検出されたんですよ。それにうちの旦那の両親は金町浄水場(数値が高かったところ)なんですよ」
「そうなの? じゃあ、大変ですね。でも小さいお子さんがいなくてまだ良かったですね」
「でも旦那の弟夫婦が同居していて、3歳の姪がいるんですよ。
だから、弟の嫁は昨日ミネラルウォーターを買い占めに行ったって、言ってましたよ」
「じゃ、水を手に入れることができたら、その姪っ子さんにあげたら?」
「あ、そうですね。そういえばそうですねー」

もちろん「ご心配には及びません、なんとかして行きますから」というのは、立派だ。
どうしてそれが、「立派な人だ、ありがたい」とならず、「そこまでしなくても」と受け取られてしまうのだろう。
人間関係や人づきあいの真理が分かっていたら、その差をうまく説明できるかもしれない。

わたしは彼女が反面教師になってくれたので、適度なところで引こうと考えることができた。
「バスも調べてみたんですけど、**まで電車が通るなら、そこからはバスを使っても行けそうです」
「でもそこまでしなくて大丈夫ですよ。もし朝の時点で電車が運行していなかったら、ホントに来なくてもいいですからね」
「わかりました。では、そうします」

この非常時に、そこまでしてしなければならない仕事か、というのもある。
たいして重要でもない仕事、役職であれば、頑張りすぎるのは滑稽にもなる。

このとき、たまたま予定されていたのがわたしと五ヶ瀬さんで、比べると五ヶ瀬さんのほうが断然遠かった。
でももし予定されていたのが違う人で、徒歩圏内の人だったら、わたしが「待機してもいいですよ」と言われていたかもしれない。
フリーランスのようにして働いていると、「穴をあけたら評価が下がる」と常々思っている。
だからもしかしたらわたしも、状況によっては頑張りすぎたかもしれない。

五ヶ瀬さんの行動力には驚いた。
「もっとそちらに近い親戚の家に泊まれるよう、手配した」なんて。

そういう人の周囲には、やはり同じようなエネルギッシュな人が集まるよう。
電車の運行が7割8割で落ち着いた頃、第一の職場で久しぶりに会って話したら言っていた。
「私の周りには実行力のある人が多くて、地震直後に物資を届けに被災地まで行ってる人が多かったんですよ」
――え、通行止めとかになっていたのに?
「でもちゃんと通れたし、空いてたみたいですよ。
被災地は本当にすごかったらしくて、やっぱり行ってみないと現地の様子は分からないって言ってました」

やみくもに被災地に行くことが是か非かというのは、当時も意見がいくつかあった。
わたしなどが是か非かを論じるつもりはない。

ただ少し驚いた。
そういう「とにかく行って何かしなきゃ」という人の話は聞いてはいたが、身近にいるという人に出会ったのは初めてだった。


あの日の東京:水パニック

第一の職場では、食堂が営業休止した。
食材の調達が難しいという理由で、再開は4月以降のいつかになるという。

経済の活性化は難しい。
停電、食材の品薄、放射性物質による汚染の心配、いろいろなことがある。

水道水が汚染されたというニュースがあった日、家の近くでは水パニックが起こっていた。

この日、第一の職場に行っていたので、第二の職場より帰りが早かった。
ニュースの1時間後くらいに最寄駅に着いたが、駅前のスーパーは水などもちろんないし、お茶やウーロン茶まで売り切れていた。
びっくりしてちょっと覗いてみた卸スーパーは、500mlのお茶ペットボトルを箱で2箱買い占めている人が多数。
もう棚はガラーンとしていて、レジ行列の人のカートにしか、飲料になるものはなかった。

さらに家に帰る道々の自販機では、水がすべて売り切れ。

そういえば、昼日中にしては人の姿が多いと思ったら、こういうことだったのか。

わたしが住んでいるのは都心ではないので、専業主婦も多い。
それがこの状況の一因だった。
主婦はニュースを聞いてすぐに飛び出せる。
家族のために確保しなければ!

このとき決断力を示したのが、当時の東京都知事、石原慎太郎氏だった。
水パニックが起こり、備蓄していたペットボトルを乳幼児のいるお母さんたちに配布した。
即断だった。

この水パニックは長引き、どこを見ても売っていない。
供給も需要に追い付いていなかった。

第一の職場に行く途中で立ち寄ることのあるスーパーで、見たことも聞いたこともない水を見つけた。
2リットルのペットボトルで、「このあたりには病人の方もたくさんいて、ミネラルウォーターが必要な人もいるから売ります」という張り紙がしてあった。
値段は300円していた。
どこかからやっと持ってきた水なのだろう。さすがに高かった。

都心では、自販機には水が残っていることもあった。500mlだ。
特に職場内の自販機だと、買い占めるのは難しいからなくならない。
「あの人、買い占めてるわね」と見つかってしまう。

アマゾンなどは当然売り切れ。
近所のスーパーも残っていない。

何日も経って、駅前のセブンイレブンが「おひとり様1本まで」と売っているのを偶然見た。
普通、関東で見かけるのは「南アルプスの天然水」だが、「阿蘇の天然水」「大山の天然水」を見ることもあった。
珍しいので、それは飲みたくなった。

アメリカのウォールマートとつながりのある西友では、カナダの水を売っていた。
500mlサイズしかない。
でもそれを24本入りの箱で買うことはできる。
ラベルがとてもちゃちだったのを覚えている。

水というのがどれだけ大切なものか実感した。

計画停電があって、現代は電気文明と言ってもいいと思った。
電気がなければ何もできないのだ。
水道さえ、ある種の造りのマンションでは、電気がなければ断水するのだとか。

水パニックがあって、水が欠かせないものだと知った。
飲み水だけじゃない。
シャワーだって、お風呂だって水だ。
「放射能のいっぱい溶け込んだお風呂」なんて、あまり嬉しいものじゃない。

そんなに大切なものだということを、普段は気にしていない。
どの浄水場が一番数値が高いと言われても、自分たちの家がどの浄水場から来ているのかも知らなかった。

でももう2年も経った。
喉元過ぎると本当に熱さを忘れると思う。

あの日の東京:節電

どこでもここでも節電だった。

第一の職場は、地震があってから数日してから行ったわけだが、もう節電が叫ばれていたので真っ暗だった。
お役所ではないけれど、公的な意味合いの強い施設なので、上からのお達しで「○%削減」とノルマを課せられていた。
廊下の電灯は消灯されていて、危険なほど真っ暗だった。
大雨などで館内が暗い日や、夕方日が落ちてからは電気がつくが、相当数の電灯を外してあるので点いても暗い。
夕方は、だいたいの場合は点灯しないままだった。日が落ちる頃には生徒さんは帰るからだ。

エレベーターも1機を残し、停止していた。
1機だけは動いていた――障害者が多いので、エレベーターは必要なのだ。階段を使えない人もいる。
それを言ったら、弱視の人だっているのだから、危険なほど真っ暗なのもどうかと思うけど。

当然、世間のあらゆるところが節電していた。
この時期、節電をしていなかったら、どんな非難を受けるか分からない。
――善意や義務感からだけでなく、そんな緊張感があった。
わたしだって思った。エアコンの室外機なんかが動いていたら、「あのうち、エアコンつけてるわ!」とご近所ににらまれそうだ、と。

駅でもエスカレーターは中止。
なくては移動ができないほど深いところを走る地下鉄は動いていたろうけど。
――永田町付近の地下鉄が超ロングエスカレーターなのは有名だし、新しくできた地下鉄は空いているところが深いところしかないから、恐ろしく下にあるのだ。

駅構内もホームも真っ暗な駅もときどきある。
これは停電なのか? 節電なのか?

スーパーでも節電。
わたしもスーパーで働いていたからわかるけど、スーパーというのは明るいものだ。
煌々と照らして、食材をおいしく見せるし、明るくしておくほうが気分も上向きになって、購買意欲も上がる。
それが、節電で薄暗くて、「確かに購買意欲は下がる」と思った。
――この「いつまで?」というのが分からない非日常は、心を疲弊させたけど、それでもまだ電気が明るかったら、もうあと500円くらい買い物をしたかもしれない。
暗いとなるほど、「これは必要ってわけじゃないからいいか」「こんなにたくさん食べる気分じゃないし、いいか」などと買い控えてしまう。

それにもうひとつ、食材の問題がある。
スーパー内のクリーニング店で働いていたとき、食料品階だったときはとても寒かった。
生鮮食料品を新鮮な状態で置いておくには、相当な冷気が必要になる。
夏でないだけまだ良かったが、肉や魚や冷凍食品、アイスクリームなどは、3時間も4時間も停電していたら困ったことになる。

わたしが一番困ったのは、電車内の明かりだった。
節電のため、車両内の電灯を切っている路線が多かった。
そうするととても暗くなる。
だからブラインドを下げずに外の明かりに頼るしかない。

実はわたしは日光過敏症。
電車に乗ると必ずブラインドを下げるし、夏でも長袖、手袋。
夏に手袋をせずに七分袖の服などを着て、日差しの強い日に外に5分もいれば、手の甲と袖から出ている腕の部分に湿疹ができる。
これがまた、一度できるとしつこくて、なかなか治らない。

節電をしている暗い電車では、ブラインドを下げるなんてとてもできなくて、逃げ場がなくてとても困った。
その上、この期間にシースルーなブラインドも開発されてしまい、この極端な節電期間が終わってからも導入され続けている。
夏にこのシースルーなブラインドは、まったく役に立たない。
さらにあろうことか、「紫外線カットガラス」なる窓が出て、ブラインドさえない路線も増えた。
――これは絶対、節電のためじゃない。重量を下げてスピードを上げることなのだろうが、節電時代のおかげでやりやすくなったに違いない。
怖くて自分を晒したことはないが、車と同じような素材なら、それは完全カットではない。

熱心に自宅での節電を行っている主婦もたくさんいた。
「冷蔵庫はいっぺんにあけるようにしてるんです。こまめにあけると電気代がかかっちゃうから」

節電はやがて、節約と区別がつかなくなっていった。
「水道もなるべく使わないようにしてるんです」「ガス代はこうやって節約しています」「スーパーに行っても必要なもの以外買わないようにしています」
「自粛」という言葉もキーワード。「買い物も最小限にしています」「外食するなんて、こんなときに!と思うから、自粛しておうちで節約ごはんを食べてます」

無駄遣いをする人は白い眼で見られそうな時期だった。
「贅沢は敵だ!」という恐ろしいくらいのムード。

冷静に考えれば、節約なんてしないで、被害の少なかった地域はどんどん消費をすることも重要だ。
経済が動かないと復興も進まない。
そういう意見もあって、わたしとしては賛成だったのだけれど、ネットで知っている人は九州の人に至るまで、「なるべく節約してる」という人が多かった。
いや、そんなに無事な地域はどうぞ消費活動を活発にして、日本の経済を支えてください。

東京のような東日本にいても、長引く電力不足や放射能漏れ問題に意気消沈せず、元気に消費をしている人もいた。
食べ歩き好きの人の中には、毎日のように外食をして、できるだけ被災地の日本酒やら食材やらを注文する人もいた。
人々が引きこもっているため、飲食店は経営困難になっているところも多かった。

でもわたしも、あまり遠出をしたり外食に行ったりしたくはなかった。
仕事などでやむを得ず外に出たら、終わったときにはできるだけ早く帰りたい。
また電車が止まったら? と思うと、気が気でなかったのだ。

あの日の東京:計画停電

計画停電は、人の気持ちを翻弄した。

最初は一律で行われることになっていたが、23区外は除外となった。
大きな病院、大きな駅、大混雑する交差点、重要な機関など、都心の一部が一斉に停電になるというのは想像がつかない。
電車の運行ひとつとっても、では新宿駅を含む区域が停電になったらどうするのか?と余波が計算できない。
そこが止まっているということは、山手線のほかの駅に停車中の電車だって止まらざるを得ない。あれはぐるぐる回っている路線なのだもの。
東京駅や銀座を含むあたりの、人も車も多い交差点はどうなるのだろう? 渋谷の交差点は?
警察官による手旗信号でさばけるものなのか?

それからまた変更された。
一律実施 → 23区除外 → 23区でも一部実施

毎日「今日の(明日の)第1グループは?」と確認していたが、すぐには実施されなかった。
電力不足を補おうと、すさまじい勢いの節電も進んでいたのだった。

ところがある日、サイトで確認しているが一応テレビでも確認、と流れ続けるテロップを見ていたら・・・・・・
「計画停電中 第3グループ **区」

え!? そうなの?
停電してないし! 第3グループになってるし!!

またサイトを開いて、グループ分けを確認してみたら、家のある**区は第3グループになっていた。
いったいいつのまに変わった?
その上、自宅近くの町名は除外されていた。

どうやら計画停電区域からは除外されていて、「いつ停電?」と見る必要はなさそうだが、この調子ではまたいつ変更になるか。
ないものと思っていたら、備えもなく停電になったりするかもしれない。
グループ分けさえ、日々チェックが必要だったとは――!

そんなことのあった翌日、「大規模停電があるかもしれない」と報じられた。
寒くなる予報だったからだ。
わたしはマンション住まいで、通気が悪いため冬も暖かめで、夏は暑くなり物もすぐに腐る。
幼児や高齢者もいないし、電力不足状態になってからは、エアコンはつけていなかった。
でも確かに「大規模停電があるかもしれない」と言われた日は寒く、布団にでもくるまっていないと過ごせなかった。

この計画停電、23区のほとんどは除外されていたけれど、足立区と荒川区は実施されていた。
埼玉の変電所管内だからだそうだ。
インターネットでは「東京21区」「足立と荒川をあわせて東東京市」(西東京市というのがあるので)などと揶揄されていた。

わたしの知人はその区域に住んでいたので、憤っていた。
「23区は除外だっていうのに、うちは実施されてるのよ!」

第一の職場の事務の人の家は、東京都ではなく、計画停電が実施されていた。
当時この人はいろいろな調整で忙しく、毎日残業で遅くなって家に帰ったが、帰ると家の近所が暗くなっている。
「それが、電気がどこから来てるかっていうのが複雑に絡み合ってる地域らしくて。
このブロックは真っ暗だけど、道をはさんだ向かい側は電気があかあかとついてるんですよ。
それだけじゃなくて、真っ暗な中にも2軒だけ明かりがついてる家があるんですよ。そこは別なところから来てるんだそうで」
道の向かい側がついているというのは、不運だったと諦めもつくかもしれないが、同じ区画なのについている家もあるというのは納得がいかなさそうだ。
「なんかそこはしょっちゅう停電するらしくて、毎日のように、あ、あそこまた暗い、今日も暗い、って同じところばかり停電してるんですよ」

「どうしてうちだけ?」「あそこは全然停電しないのに?」という声が漏れ始めていた。

ある知り合いも言っていた。
「この大通りは、左側と右側で地域が違うんですよ。いつも左側だけ真っ暗なの。
それでどうしてあっちはいつも明かりがついてるのかって、怒る人も多くなってきてね」

そりゃあ、そうだ。
全員が平等に不便を忍んでいるなら我慢もできるけれど。
だからといって、電気が通っている家が「じゃあ、うちもお向かいに合わせて電気を消そう」とはしない。

前述の第一の職場の事務の人は、車通勤をしている。
「信号機が何の明かりもついてなくて、交差点がすごく怖かったですよ!」とも言っていた。
実際、信号機が停電になっていて交通事故で亡くなった人もいる、というニュースもあった。

ある人は言っていた。
「簡易書留を出そうと思って郵便局に行ったら、計画停電中だからできないって言われたんですよ。
計画停電区域じゃないところではできるかもしれない、って言うから、ほかの郵便局に行ったんですけどね」

わたしも郊外のスーパーにたまたま入ったら、張り紙がしてあった。
「計画停電時間帯ですが、営業しております」(必ず実施されるとは限らなかったから。)
「節電のため、電気はつけておらず、店内は暗いのでご注意ください。
計画停電が実施されると、お会計途中でも清算できませんので、あらかじめご了承ください。」
――なるほど、レジだって電気で動いているわけだ。
ちょうど自分のお会計が半分くらい済んだところで急に停電が始まったら、終わるまでお金を払ったりお釣りをもらったりできないということか。

わたしなどは、いったん会社に行ってしまうと、たとえ自宅が停電していてもわからない。
勝手に停電して、また勝手についているってことになるのだろう。

でも自宅で仕事をしている人や、ママ業をしている人は、昼間だろうが夜だろうが、1日2回だろうが、全部停電する。
区域によっては1日に2回停電することもあったのだ。

今日はなかった、今日はあった、うちなんか2回もあった、とSNSなどでつぶやいているのを見た。
キャンプ好きの一家は、夕方から夜の時間帯で停電だったので、早めに夕食にしたと言っていた。
暗い中での食事も、キャンプみたいで子供は喜んでいた、とも。
子供って元気で、たくましいと思った。

わたしは楽しむ余裕なんてなく、仕事でも振り回されていた。

第一の職場、1日目は「1時間半の勤務になりますが、よろしいですか?」と言われ、嫌だとは言えないから了承した。
2日目も1時間半だった。
そこに通ってくる生徒さんたちの多くが使う路線が、「○時~○時まで、**駅~**駅区間のみ運行」と制限されたためだ。
1時間半以上いたら、制限される時間帯になってしまって、帰るに帰れない。
嫌とは言えない状況だから、交通費自腹で勤務時間は1時間半というのはつらいが、了承した。

生徒さんたちも頑張って通うのだから、わたしも行かねば。

しかしその後、夜に見たらまた運行区間が変わって、伸びていたので、当初の予定通りの時間まで実施されるかも?
――毎日が二転三転、確かなことがなかった。

地震の後、第一の職場だったら電車以外の手段で帰れたかどうか、地図で確認しているのだが、難しそうだった。
たぶん、無理だ。
だから、どうかお願いだから止まらないで!と思っていた。
わたしが帰り着くまで、止まらないで――

あの日の東京:混乱

2日目、結局仕事には行かなかったので、また買い物に行ってみた。

スーパーは、また一段と陳列棚がガラーンとしていた。
肉やハム、ソーセージ、お湯で温めるタイプのハンバーグやミートボール、納豆などの陳列棚はずーっと向こうまですっからかん。
何ひとつなかった。

しかし野菜は少し増えていた。
遠くから送られてくるような品種はないが、近くの農家で作られているものは復活していた。

別のスーパーに寄ると、なんだか店内が薄暗いと感じた。
節電のため、OFFにしている蛍光灯があるためだった。

そしてここで、トイレットペーパーとティッシュペーパーをお1人様1個、買うことができた!
夫と一緒に行ったのだが、2人で行ってよかった!

トイレットペーパーはとっくに売り切れてなかったが、ティッシュのほうはまだあった。

夫の実家のある小さな町は、「津波で半壊、孤立している」という情報だけがずっとTVで流れていた。
こういう言い方は不謹慎かもしれないけれど、TVは「絵になる」惨状を繰り返し繰り返し流していて、リポーターが現地に行ったりしていた。
でも小さな町については、まったく情報がないのだった。
掲示板や質問箱はツイッターでは、そういった小さい町に身内がいる人たちが心配して、
何か情報はないかと問いかけていると分かった。

答えを書いてくれる人もいて、「少なくとも自分に分かる範囲ではこうです」と情報が伝わってきて、安心する人もいる。
わたしも義父母の住む町について、そういうところで見てみることにした。

ツイッターでは、その町がとんでもなくひどいことになっているという情報もあった。
これは後でウソだと分かった。
恐怖を煽るツイートをたくさん流している人がいるのだった。
知らずに見たときは本当に怖い思いをしたので、わたしに関しては狙いは当たったというべきだろう。

本物の情報らしいツイートでは、無事が確認されたり、携帯がつながり始めたりしているようだったので、少し安心した。

この日は一応、計画停電に備えて、パソコンなど急に電源が落ちては困るものを落とし、ろうそくも準備したが、結局わたしの家は停電にはならなかった。

第一の職場の状況は混乱していた。
中止とも定まらず、実施とも定まらず。

電車が動かなければ、受講する人たちも来られない。
でももし人が集まってしまったら、講師がいないわけにはいかない。

待機待機だった。
待機のあげく、最初の日は中止になった。

翌日は、地震が起こったため、皆さんに伝えたかったガイダンスが棚上げになっているので、そちらをしたいと言われた。
「ですので、勤務時間を1時間半に短縮ということで、**時までに来ていただけますか?」

交通費自腹の身としては、勤務時間が短いのはつらいことだ。
勤務時間と往復の通勤時間を比べたら、だいたい同じか通勤のほうが長いくらいだし。

しかしそんなことを言っている場合ではない非常時だから、指定の時間に出かけて1時間半だけ仕事をした。
事務の方はじめ、皆さん頑張って、なんとか運営しているのだから――

計画停電のほうは、なかなか実施された話を聞かなかった。
知り合いはSNSやブログで「今日は停電が実施されなかった」と言ったりしていた。

しかしついに、埼玉の知人のところが停電したようだった。
職場関係の知人で、SNSに書いていることを見ただけなので、詳しくは聞かなかった。
午後から3時間。幼児がいるご家庭なので、子供と家にいたそうだ。
「3時間は長かった。夜はもっと長く感じるかも」と言っていた。

電気がないということは、TVを見ることもできないし、暖房器具もつかない。
3月だというのにまだまだ寒い年だった。
毛布などにくるまって寒さを防ぎ、じっとしているような3時間は長そうだ。

東京都下で商売をしている知人も、停電したとブログに書いていた。

そろそろうちも停電するかもしれない――でも仕事に行っている時間帯だと、あまり分からないだろうな。

あれこれ心配していたのだが、結局、わたしの住むところは計画停電には出会わなかった。

あの日の東京:電車にて高層階の話を聞く

第二の職場に通勤できた日もあった。
こちらの通勤のほうが、第一の職場よりいかにも「通勤」という電車を使う。

電車に乗っていると、突然誰かの携帯がブーッと不気味な振動音を出す。
すぐにマナーモードの振動音は車両内に広がる。
あっちでもこっちでもブーッ、ブーッ、ブーッ!

緊急速報の振動は、たぶん普通の着信の振動とは違うのだ。
明らかに違う音がするので、何事かとドキリとする。

でもかかる時間は違えど、どんな状況にも人はある程度、慣れるもので、やがて必要以上にドキリとすることはなくなった。

ドキドキするのは音そのものに対してではなく、「どのくらいの余震?」「この電車は止まったりしない?」という心配に対してだ。

見知らぬ同士なので、電車内はとりあえず静かだ。
誰も口に出して騒いだりはしない。
もし、とても大きな地震だったり、非常事態になれば別かもしれないが、まずは様子見。

会社でもそのほかのところでも、一斉に警戒音や振動音が鳴りだすことはあったけど、電車が一番印象に残っている。
知らない者同士がたくさん集まっている上、閉鎖空間である。

なんとなく緊張した空気。
誰もが落ち着かない気持ちを感じているが、表面上は誰も何も言わないし、動揺を出さない。
たまたま同じ方向同士のOLさんなどが2人連れで乗っていたりすると、「また余震?」「どこが震源かなぁ?」などという会話が聞こえることもある。

OLさんたちの会話で知ったこともあった。
「友達の会社は、もう今週は営業停止だって」
「へぇ~」
「会社が41階にあるのねー、それで、停電になったらエレベーターも止まるからー」
――まだ計画停電が都心にもあるかもしれない、と言っていた頃だ。

言われてみれば、いったん計画停電になったら、そんな高層階から誰も外に出られないだろう。
用があっても出られないし、来客も足止め?

エレベーターは、地震のときたまたま中にいた人が閉じ込められたりもして、大変だったと聞く。
今では対策をされたエレベーターも見かける。
「このエレベーターは、地震などを感知したとき、ゆっくりと最寄り階に停止します」というような張り紙を見る。
わたしもしばらくはエレベーターに乗るとき、ふと不安になった。
中にいるとき、たまたまピンポイントで大きな地震があったら? と。

「地震の日は大変だったって」
「そうだよねぇ」
「非常階段で下まで降りたんだって」
「すごーい」

実はわたしが登録している派遣会社のひとつも、高層ビルの上のほうにあった。
単発の仕事でこの階に何度か通ったことがあるが、眺めが素晴らしかった。

地震のことがある程度落ち着いて、派遣会社の担当者が面談に来たとき言っていた。
「非常時っていうのは本性が見えるっていうか、そこでどんな上司か分かりますねえ」
――これは、わたしが第二の職場について、少し話したからだ。

「うちの社長は以外にも株を上げたんですよ。あのときも決断が早くて。
これこれこうしろーってすぐに指示を出して、自分もどんどん行動して」
「そうなんですか」
「今度、うちの本社、移転するんですよ。行ったことあります?」
「あります。単発で、これこれの仕事に通ったこともあります」
「あそこがすごい高層階だったでしょう? 地震があって、高層階は危険だ!って言って、もっと低いビルに移るんですよ」
「そうなんですか。本当に行動が早いですね」
「物件ももう決まって、近々引っ越しです」

自宅でも、なるべくエレベーターではなく階段を使うようにしていた。
中に閉じ込められたらと思うと、余震が頻繁にあった時期は特に怖かった。
今でも、エレベーターが階にたどりつくまでは急な地震などないように、とどこでエレベーターに乗っても思う。

これがもしもっと高い階に住んでいたら、日々の外出も面倒だったろう。
あのときは低い階でよかったと思った。
高層階は余震も恐ろしかったに違いない。

第一の職場など建物自体が低いし、第二の職場は高層ビルというほどでなく、またオフィスがあるのも低い階だったので、エレベーターのことでどうこうということはなかった。
第一の職場などは、面積が広くて低い建物なので、地震があってもそれほど揺れなかった。
――古い建物で免震構造のような造りでないせいもあるが。

OLさんたちの話は、なるほどと思いながら聞いた。

あの日の東京:計画停電発動の月曜日

この日は第二の職場に行くはずだった。
地震の翌週は、月・火と第二の職場に朝から行くはずで、水曜以降は第一の職場の予定だった。

第一の職場は、代わりのいない仕事。
電車遅延があっても着けるように、早めに出たり、きちんと運行情報を見たりして、自己管理しなくてはならないインストラクターの仕事だ。
でもこんな大災害の余波を受けたことはないので、絶対に遅れてしまうだろう。
いきなり第一の職場でなくてよかった、と思った。

計画停電が月曜から開始だというので、日曜の夜は遅くまで落ち着かなかった。
何度も「停電のグループ分けは何時頃、これこれのサイトやTVで発表される」とか「停電の割り振りは何時頃、これこれのサイトやTVで発表される」と報道され、でも二転三転したのだ。

最初のグループ分けでは「第1グループ」に入っていたわたしの住む場所は、次に見たときは「第3グループ」になっていて、「いつのまに変わった!?」とあわてる。
ホームページに載せるというから、TVで流れるテロップより分かりやすいだろうと思ったら、アクセスが集中してつながらない。
つながってみたら、あがっている情報は紙に書いたものをスキャンしただけのようで、文字もつぶれていて、拡大しても意味がない。目を細めたり凝らしたりしてみても、なんだかよく読めない。

で、結局、TVに流れているテロップをメモして、自力で手書き表のようなものを作成し、「明日はこの時間に停電するらしいよ」ということになった。

ただこれも、確実な話ではない。
「足りなくなったら停電する」ということで、もしかしたら停電しないかもしれないのだ。

ただ電車は「あ、やっぱり停電しちゃったか~」というわけにはいかないので、「この区間は運休」とあらかじめ決められていた。

わたしが通勤に使う路線は、ちょうどわたしの最寄り駅からターミナル駅まで、運行するという。

最寄り駅から先、つまり郊外のほうは運休と発表された。
運行するといっても、通常ダイヤのはずがないので、わたしは少し早めに駅に行った。

しかし駅にさえ近寄れなかった。
構内に入るどころの話ではない。

「**駅~**駅間で運行」と発表されていたので、わたしの最寄り駅より郊外に住む人たちは、朝早くからここまでなんとかして来ていたのだった!
車で来たのか? ――だとしたら停めるところもそれほどないだろうから、家族が送ってきたのだろうか?
バスで来たのか? ――いくつも乗り継がなければたどり着けないだろう。
自転車が駅の近くにぎっしりと置いてあった。――自転車で来た人も相当多かったようだ。
どこから自転車で来ていたのだろう?
正規の駐輪場も駅前にあるのだが、入りきれないのだろう。路上駐車の自転車が多かった。

ホームにはもちろん、電車を待つ人たちが並んでいたことと思う。
でもホームだけでは人を回収しきれず、改札の外にも人が並んでいた。
入場制限をして、一定量を改札内に入れるようにしていたようだ。

改札からずらりと並ぶ人の列は、階段を埋め、駅構内を埋め、外に続き、駅前のコンビニの入ったビルなど3つの建物をぐるりと回って道路にずらりと並んでいる。
先を見ると、ずっと向こうの居酒屋のところまで並んでいる!

これではいつ電車に乗れるか分からない。
1時間どころでは乗れないだろう。

駅員さんが「駅構内に入れない人の列はだいぶ減ってきたので、まもなく乗れるはず」とアナウンスしていた。

しかしどう見ても5分10分で乗れるとは思えない。
これで「だいぶ減ってきた」って、最初はどれだけ長い列だったのだろう?

昼をだいぶ回ってようやく着いても、仕事はたいしてできないし、帰りもまた同じことになる?

わたしは諦めて家に帰った。

帰る前に第二の職場に電話して、今日は休むと告げた。
総務部の人がもう来ていて、電話に出ていたので驚いた。さすがだ。

この日は後から急遽、「やはり大丈夫そうなので、**駅まで運行区間を延ばします」となり、当初の予定の倍以上の距離になった。
それがさらに「大丈夫そうなので、通常運行します」となったので、朝早く家を出て確実に運行される駅まで来た人以外は、通常通りの電車に乗れたはずだ。

しかし予定が変わるとまた帰宅困難者の原因になるかもしれないし、「もう今日以降は、この区間以外本当に運転しない」と鉄道会社が宣言。
2日目の火曜日は本当に運行されなかった。

道路は渋滞。
唯一の始発駅となった、わたしが使う最寄り駅は前日以上の長蛇の列。
――たぶんダメだろうと思ってはいたが、一応行ってみないと休むに休めないと思い、駅までは行ってみた。

駅に近づいたところで、もう無理だとすぐに分かって、第二の職場にまたしても休みの連絡を入れた。

翌日から第一の職場に行くことになっていたので、第二の職場に行くのはしばらく後になる。
しかし第一の職場は、この通勤路線を下っていく――つまり、運行していない区間を通らないと行けない場所にあるので、果たしてどうなるのか分からない。

もう翌日の話なので、第一の職場には鉄道の運行状況について、報告のメールを入れておいた。
たぶん、いろいろな対応に追われて忙しいだろうからと思って、電話は控えた。

しかしその後、東京電力が鉄道には電気を確保するというようなニュースが!
変電所ごとに供給を止めるので、「大病院だけ電気を流す」「大きな交差点の信号だけ電
気を供給する」ということはできないと聞いていた。
しかし鉄道は特殊な配電の仕組みになっているのだという。

それなら行けるかもしれない。

この調子で、計画停電時の電車の運行には本当に振り回された。
多くの人がそうだったと思う。
車通勤で、問題はガソリンだけ、電車の運行は関係ないという第一の職場の事務の方も、自分は問題なくても通ってくる人たちの管理で、電車やバスのことをずっと気にしていた。

わたしのような電車に頼った通勤をしている人間は、頻繁に情報をチェックしなくてはならず、「ああだ」と思ってもすぐに一転して「こうだ」となり、振り回された。
わたしにとっては、地震後の日々の一番強烈な印象は、「計画停電で電車の運行が混乱した」ということだ。

あの日の東京:日曜日の夜

実家の妹とは携帯で連絡がとれ、家族は無事ということで安心したが、翌日も「停電が続いている」と言っていたので、その後連絡はとらなかった。

テレビなどでも、茨城ではかなりの地域で停電が続いていると報じていた。
固定電話がつながらない以上、妹の携帯だけが頼りだった。
充電が切れてしまったら、いざというとき役に立たない。
電話をかけることもメールも控えていた。

妹自身ももちろん、携帯のバッテリーを温存しておきたいと考えていたから、翌日に電話をかけてきてもすぐに切った。
妹自身は一度連絡はついていたので、翌日かけるつもりはかったが、母が夫の実家を心配したのでかけてきたのだった。

母も携帯を持っているが、なにしろ普段は慣れた固定電話を使ってしまうので、肝心なときに充電していなかった。
夫の実家に至っては、義父にしろ義母にしろ、携帯なんてものは持ったことも使ったこともない。
一度連絡がとれただけで、その後まったく安否が分からなかったので、「これを乗り越えたら携帯を持ってもらおう」と話をした。

妹はろうそく暮らしだと言っていたので、やはり普段から大きな懐中電灯を用意したり、停電にも備えるべきだと思った。
実家には仏壇もあるから、お線香とろうそくが常にある。でもうちは――?
わたしは一応、家にあるだけのろうそくをかき集めた。
アロマキャンドル、お香をしようと思ったときに買ったもの(下からろうそくの火で温めてアロマや煎茶の香りをたてるもの)、そんなものしかなかったけれど、何本かあった。

夫の実家とはその後連絡が途絶え、心配ではあったが、当の夫は表面は冷静だった。
「まあ、1回は連絡がとれたし」という。

そのときは元気にしていたし、たぶん大丈夫だろう、と。
「明日また電話する」と義父母は言ったらしいが、その「明日」が来る前に、津波や火事でさらに被害が広がり、もう電話はつながらなくなった。
テレビを見ているとすさまじい映像ばかりで不安が募るので、ときどき最新ニュースを確認するだけにした。
やがて、同じことの繰り返しだと分かったので、テレビを見るのはやめることにした。
インターネットでも最新ニュースは分かる。

「津波があったのは**町、**町、**村――」という中に、夫の実家の町も入っていた。
「町の半分が全滅」とのこと。

水が来たのは海岸から6キロくらいのところまで。
「うちは7キロくらいあるから、大丈夫だと思う」と言う夫。
携帯を持ってもらいたい。でも携帯を持ってもツイッターだの、今ならフェイスブックだ
の、そういうものは夫の両親はやらないだろうけど。

地震は金曜にあって、日曜には母が電話をしてきた。
ようやく電気が来て、電話がつながったからというので、とりあえず安心した。

その時点で水道はまだ断水していると言っていた。
わたしの実家は山の近くで、昔から山の沢水をひいていた。
そのために水道当番というのがあって、1週間ごとにご近所組合の家を当番札が回っていた。
担当の1週間の間に雨や風があったら、取水しているところまで山を登っていき、取水口のところに木の枝や葉などが落ちていたら掃除をしなくてはならない。
子供の頃はそれが唯一の水道だったが、今では沢水は飲用には使わない。食器を洗ったり、庭の草木に水をやったり、車を洗ったりするくらいにしか使わない。
その水道は、市の水道局が遠くから引くものとは違って、組合が管理する大変ローカルなものだから、地震で管や取水口が壊れない限り、断水にはならないだろう。
昔は飲んでいた水だから、断水が長引けばそれを飲むこともできるはずだ。

文明化された生活って、ひとたび何かあると個人の力ではどうしようもないので、恐いものだと思った。

伯父の家はIHに切り替えたところだったので、停電のためにまったく使えなかったそうだと母が言っていた。
実家では未だにガスコンロを使っているので、電気は止まっていてもガスは使えた。
田舎のことでプロパンガスだったので、「ガスが止まる」ということはない。
プロパンの交換に来てくれるかどうかは分からないが、家の裏手に置かれているプロパンにまだガスがある間は使うことができる。

わたしのマンションでもガスが止まった――と思って焦ったが、止まってはいなかった。
地震で自動的に停止したようで、普段は開けない検針メーターの扉を開けたらボタンがあり、リセットするとガスが使えるようになった。

なんとこの週末の間に、原子力発電所が事故で止まってしまうという事態が起きた。
冷却もできないと報道され、どうなってしまうのか不明という状況。
ただ、「電力不足は長引きそうだ」ということだけは判明していた。

たまたま地震があったのが金曜だったので、翌日から会社に行くということはなかった。
会社に泊まりこんだ人たちも、土曜日に家に帰って週末は出社することもなかった。

でも明日の月曜からは、営業できる会社は仕事が始まるだろう。
わたしも、休む理由も特に用意できないので、行くことになるだろう。

計画停電だけは、初めてのことでどうなるか分からないが、日常が戻ってくると思っていた。

あの日の東京:他の人たちのストーリー 第一の職場

第一の職場で皆さんがどうしていたのかは、すぐには分からなかった。
こちらでのわたしも第二の職場同様部外者みたいなもので、会話も社交辞令の域を出ないことが多いからだ。

ある男性に少しだけ聞いたことがある。
「**先生はどうされたんですか?」
「私はもう帰れないって諦めてね、だって電車走ってないんだもん。
**で飲んでた。朝まで!」
「朝まで!」
「だってそれが一番ですよ、もう」

冗談のように言っていたけれど、本当は心配だったろうと思う。
認知症を患う年老いたお母さまと暮らしていらしたから。
でもそんなことを言う間柄ではなかったから、「さすが酒豪の**先生ですね」と結んだ。
「そうですよ、酒飲んでるのが一番! だってどうせ帰れないんだから!」

お母さまはそのとき心細い思いをしたため、息子の帰りが遅くなることを怒るようになり、それからは飲み会があっても早々と帰っていた。
息子といっても60を過ぎた息子である。
でも「私はこれで失礼しますよ。門限ができちゃってね、困ったもんですよ」と冗談めかして帰って行った。

この先生は、わたしが「ここで働いている日にあんなことがあったら、遠いから絶対帰れない」と言ったとき、アドバイスしてくれた。
「あなた、家、どこなの?」「**です」
「あのよくこの辺の廊下にいる女性の先生、知ってる? あの人と仲良くなるといいですよ。
あの人確か**の近くだから。車通勤だから、なんかあったときは乗せていってもらえますよ」

でもその作戦はなかなか実行できなかった。
わたしはあまりに部外者すぎて。

これ以外の話を聞いたのは、2年も経ってから。
偶然ふと耳にしたのだった。

ある管理職クラスやその他の人たちと話していて、「あのときどうしていた?」になったのだ。
わたしは相槌くらいで聞いているだけだったが、他の人の会話で初めて少しばかりかい間見ることができた。

「**さん、あのときはーー」
「私は会議行ってましたね。高輪まで」
「じゃあ、ご自宅にはーー」
「帰れない帰れない!」
「ですよねえ」
「なんとか協会の人とかねえ、いろんな組織の人が集まってる会議でね。
発表なんてしてたんだけど、あの地震でしょ。
なっかなか収まらなかったんだよね。
余震もなんっ回もあったしね。
もう発表やめていいですかって言いましたよ。
だってさあ、高層ビルで怖いのなんのってね!」
「どうしたんですか、その後?」
「品川かどっかまでなんとか出たんだけどね。
電車動いてないでしょう? もうこりゃダメだと諦めましたよ」
「そうですか」
「あの日はさあ、**さんの送別会だったんだよね、確か」
「ああ~、あのとき異動になったんでしたね、**さん!」
「確かそうなんだよ。それで管理職の送別会が**であってね」

――第一の職場は「組織」ということにかけては、少し昭和を感じさせるところがある。
送別会は、派遣に至るまで部の全員が集まるもの、部ではなくて全体の正規雇用だけが集まるもの、管理職だけが集まるもの、親しいもの同士、何度もあるのだ。

「あ、管理職の送別会、**でやったりするんですか」
「あのときは**でしたね。
それで幹事のヤツに電話して、ちょっと身動きとれないから、って言ってね。
私、ソフトバンクだからつながらなくてね! 公衆電話探してねえ」
「今は公衆電話、だいぶ少なくなりましたでしょ。よく見つかりましたね」
「なっかなかなくて大変でしたよ。
やっと見つけて電話したら、あいつ、来ないんですか!なんてね。
行けないよ!」

「**さんも行けなかったんですよね」
「あの人も行けなかったみたいね」
「出遅れたんですよ。もう皆さん、向かってしまった後になって、出ようとしたら帰った人たちが戻ってきちゃったんですよね」

第一の職場は、学校のようなところだ。
地震のため、すぐに帰宅させたが、電車が止まっていて復旧の見込みも立たない。
夜の闇が近づいてくる。

さらにこの学校のようなところに通う『生徒』たちは、障害者だった。
危険を感じた『生徒』たちは、慣れた学校のほうがいいと駅から続々と戻ってきたわけだ。

「それであれでしょ、布団とか用意したんでしょ?」
「**さんがどういう気持ちでしていたかはわかりませんけど、戻ってきたものは仕方ないから、**室にあるだけ毛布とか布団とか運び込ませてね」
「あれですっかり英雄だもんねえ」
「あんなときに飲み会をしてるなんて、何をやってるんだっていうときに、**さんだけ素晴らしいことをした人になりましたからね。
決断力のあるすごい人みたいにね」
「私は飲み会、参加してないからね」

昭和の香り漂う人間関係では、こういった歓送迎会は重要な行事だ。
たぶん、話している人も、帰れる距離だったら飲み会に参加しただろう。
英雄になった人も、そのときは「間が悪かった」と思ったに違いない。「もう少し早く出ていれば、捕まることもなかったのに」と。

でもそこが運命の分かれ道。
まさかあんな日本中が注目する、忘れられない大事件になろうとは。
朝まで電車が動かなかったことで、前歴のない事件になろうとは。

これ以外に、第一の職場でそのときのことを聞いたことはない。

あの日の東京:他の人たちのストーリー 宮城にて

3月11日、地震発生。

その日の夜、宮城に住む夫の両親とは、一度だけ連絡がとれた。
携帯も持たず、固定電話のみなので、一度でもつながったのは奇跡のようだ。
夫が話したので覚えていないけれど、向こうからかけてきたと言ったのだったかな?
こちらから電話したのは、全部通じなかったのかもしれない。

義父は少し自慢げに「うちは大丈夫だった」と言っていたらしい。
「家もなんともないし、二人とも元気」と。

それきり、電話は不通になった。
行こうにも交通手段はなくなっていた。電車も不通だし、道路も各地で閉鎖。
また、緊急車両のためになるべく行かないようにとも言われていた。

だんだん被災地の情報が入ってくると、夫の実家の町名が流れてきた。
「**町の**地区が津波で壊滅状態」
「**町に孤立している方々あり」
このテロップが唯一の情報。

状況が伝わってこないので、被害がどのくらいなのかもわからなかった。
なんどTVを見ても、まったく同じテロップだけ。
報道陣はあちこちに行っているようだったけれど、どうも行きやすいところと、絵になる惨状のところに集中するようで、いつも同じ場所だった。

人のブログを見ていて、ふと、ツイッターで検索してみようと思った。

多くの人が「**町の情報が全く入ってこなくて心配している」とツイートしていた。
やっぱり!

前にも語ったが、デマ情報などに恐怖させられたりしながら、日に1回くらいチェックしていた。

やがて、少しずつ情報が増えてきた。
「どこまで水(津波)が来た」「この辺りは全壊」「小学校が避難所になっている」等々。
それらをつないでいくと、津波は一歩手前までだったようだ。

原発事故は収まらず、いつ爆発して一巻の終わりになるのかと不安でもあった。
毎日毎日、冷却活動の様子や新機軸、期待された新機軸の失敗などが報道され、計画停電で自宅待機などしていると気も紛れないので不安が増幅される。
心配事というのは重なると、倍増ではなく二乗になる。

20日の夜、約10日ぶりに電話が復旧し、夫の実家と連絡がついた。

停電や断水で疲れていた。
夫曰はく、地震直後は「無事だった」と自慢げなくらいだった義父も、あちこちの惨状も分かってきて元気がなくなっていたとのこと。

停電はあったが、偶然もらっていた蛍光棒で停電の4日間をしのいだそうだ。
昼間の間外に出しておくと、暗いところで発光するという棒だそうだ。

ガソリンがないため、配給の水をもらいに行くのが大変だとか。
でも近所に親戚がたくさんいるので、多少心強かったろう。
なんといっても田舎の親戚同士は密接なつながりを持っているのだから。

仙台に住んでいたSNSで知っていた人も、日記が上がるようになった。
仙台にいたことも知らなかった。

水道がようやく復旧したそうで、とりあえず洗髪をして体を洗ったとか。
でも下水道はまだ機能していなくて、いわゆる海にそのまま流す状態。
彼女自身の言葉を借りると「黄金のブツを運んだ水」が突然噴出してはいけないから、節水に協力するよう呼びかけられているそうだった。

「きっと水は放射性物質で汚染されているだろうけど、実家も東北だし、どこかに逃げるガソリンもないし、自分も若くなくて子供を作る予定もないし、水道水を飲んでます」とあった。
被災地では放射性物質を量ることもままならず、不安ながら諦めているというようなことが、日記のたびに書いてあった。

ちなみにわたしの母は、「自分はもう年だし、野菜も食べるし水も飲んでいる」と言っていた。
しかし夫の両親は、水や野菜の汚染による健康被害を心配していた。どうやら相当長生きするつもりのようだ、と夫が言っていた。

電話くらいは自由につながるようになり、何か物資を送ろうかと夫が聞いた。
ガソリン不足のため、宅急便の集荷所までは届くが、そこに自分で取りに行かなくてはならないという。
「ガソリンがなくて苦労しているときだから、物流を増やすからまだ物資は送らなくていい」というので、送らなかった。

被災地でも、比較的無事な人と、そうでない人がいた。

津波が来なかった夫の実家は、状況は不自由ながらそれなりに普通の暮らしだったのだ。
いつも一緒に暮らす家族がいて、いつも暮らしていた家にいて、近所にはいつも顔を見る隣人や親類がいる。
ただ電気や水道がままならなかったり、ガソリンがないので車移動が自由にできないだけだ。
周囲の道路は無事で、ガソリンさえあれば車でどこへでも行くことができた。

同じ町の海側は全壊していた。家々は跡形もない。道路も使えない。

知り合いがいたのではないかと夫に聞いてみると、古い田舎らしい歴史が判明した。
もともと海側と陸側の住民は仲が良いわけではない。
生業も違うし、血や文化のつながりも薄い他地域同士、ただ市区町村制度のために一緒になっていただけなのだそうだ。
子供のころも、陸側の子供は海側の子供とあまり遊ばなかったし、交流することは奨励されていなかった。――誰も口に出して言いはしないけど、暗黙の了解だった。
海側の地域がひどいことになっても、陸側の人には精神的ダメージがそれほどないだろうという。
危急の時だから助け合ったという話は、その後も聞かなかった。――どちらも同じくらい崩壊していたら、違ったのかもしれないが。

何があっても、人間関係や人間心理というのは続いていくのだ、ということを感じた。

第二の職場で仕事をしていたとき、TVで何度も何度もすべてが流された街を映し出されていた市や町から、アンケートが送られてくるのを見ることがあった。
出版社なので、出版物についているアンケートハガキなどが送られてくるのだ。
「**市」といえば、残っているものは何ひとつないような状態なのかと思っていたら、普通にハガキが送られてきて、そこには「毎日趣味のレース編みをしています」というようなことが書いてある。
「料理も好きですが、今はあまり材料がなく、好きなものが作れません。レース編みなどを特集してくださるとうれしいです」

夫の実家の町と同じで、家が流されたり、家族が行方不明になったりした人も多いけれど、家が無事に残った人もいて、不自由ながら暮らしは続いている。

周囲が残っていれば、それは昔ながらのムラ的共同体なので、慣れた世界だ。
仙台にいたSNS上の知り合いのほうが、精神的にはまいっていたような印象を受けた。
――やはり、都市部は関係が希薄だからなのかと思う。

非常時なので、これまで話したことのなかったアパートの隣人と食料を分け合ったりして、人の関係ってありがたいと言っていた。
――夫の実家とは違うと感じた。

あの日の東京:他の人たちのストーリー 茨城にて

わたしの実家は茨城にある。

以前、あんこう鍋が食べたくて北茨城に行ったことがある。
大子町というところにある袋田の滝を見て、五浦海岸という海辺に行った。
ここには岡倉天心美術館と六角堂という建物があるが、美術館には行かなかった。
六角堂も遠くから見ただけだ。
海の近くのホテルを予約していて、そこであんこう鍋の昼食を食べ、温泉浴場に入って、日帰りで帰った。

夫は岡倉天心美術館があると知って驚き、見たがった。「また来よう」と言って帰った。

でも次はないまま震災があり、六角堂は流されてしまった。
あんこうを食べたホテルは津波で浸水してしまい、営業停止。
町全部が流されるほどの大きな被害は茨城にはほとんどなかったが、津波は関東のかなり南のほうまであった。

ホテルは、1年経っても再開していなかったが、今はまた営業しているようだ。
六角堂は新たに作られたそうだ。

茨城の真ん中くらいにある水戸市でも、だいぶ大きく揺れた。

あとになって、派遣会社の担当者が来たときに話していた。
わたしが茨城出身だから話したことではなくて、たまたま話の中に水戸市のことが出てきたのだった。

当時の担当者は、派遣会社の支店を束ねているちょっと偉い女性だった。
臨時に第二の職場の営業担当をしていたのだ。

「うちのスタッフも水戸ってところに派遣されている子が何人かいてね。
もう仕事どころじゃなくなったし、その日、帰るにも帰れないし。
電話してきて、**さん、どうしたらいいですか~?って言うから、とにかく何か言ってやらなくちゃと思って。
状況を聞いたら、今、目の前で道路がぐう~んとゆがんで、地割れしていくのが見えます!って。
なにしろ、今もまだ揺れてるっていう状況でしょう?
もう決裁してる時間なんてないから、早く決断してやらなきゃと思って、とにかくつかまるならタクシーつかまえて、ホテルに行きなさい!って言って。
つかまらなくても、とにかくなんとかホテルに行って、泊まりなさい、って。
お金なんていくらかかってもかまわないから、後からちゃんと出すから、安全なところに行きなさい、夜に外にいるなんてことのないようにすぐに行きなさい、ってねぇ。
現金がなくてもカードでも何でも使って、もしどうにもならなかったらまた電話して!何時でもいいから電話しなさい!って」

わたしの実家はこの水戸市よりもさらに南なので、まだもう少し被害は少なかったと思う。
前も言ったが海辺でもなかったので、水が押し寄せることもなかった。

妹は、働いている学校が避難所になっているからというので、帰りが遅かったけれど、連絡はとれた。

でも一度連絡がついてからは、もう電話しなかった。
停電になっていたからだ。

いつ終わるとも分からない停電で、家の電話は使えず。
携帯も今の充電が切れてしまったら、もう使えなくなる。
長話は避けてすぐに切り、緊急の用件がない限り、電気が復旧するまで連絡はしないことを話し合って切った。

停電は何日か続いたので、この措置はいいことだった。
家の電話が通じないため、親類も妹の携帯にかけていたし、本当にあっという間になくなってしまうだろう。

家には高齢の家族もいたので、仕事を休めるなら休みたかったろうが、避難所としての役割があると行かないわけにはいかない。

そうなるとガソリンも必要である。
車社会なので、ガソリンがなくなったら何もできなくなる。
ガソリンは東京でも手に入らなくて車が長蛇の列だった。
妹もなんとかしてガソリンを手に入れ、仕事に行っていた。

でも仕事があるというのはいいことだ。

余震も続くし、家に帰れば停電で真っ暗だ。
家族が無事なら何かすることがあったほうが気がまぎれるだろう。

地震直後は電話も毎日かけるわけにもいかず、実家の家族たちがどう過ごしていたか分からない。

屋根の瓦はだいぶ落ちた。
保険の査定があるまではそのままの状態にしておかなければならないそうで、ずっとそのままだった。
さらに、今度は、直したくても順番待ちになって、なかなか直らなかった。
緊急なところから直していくので、幸い雨水が漏るほどではなかったから、相当後になったのだ。

屋根が直ったのは1年以上経ってからのことだった。

あの日の東京:他の人たちのストーリー 職場外

第二の職場では、ちょうどそのとき座談会をしていた。
出版社は斜陽の時代――どの会社も生き残りをかけて四苦八苦していた。

紙は電子書籍に取って代わられるのか?
印刷物の時代は終わりを告げてしまうのか?
――そういった苦悩から、荒川さんが異動したイベントを企画・運営するチームは重要視されていた。新たな事業展開によって生き残れるかもしれない。
――目黒さんのチームも、少し注目されていた。当時どこでも始めていたブログモニターや読者モニターなどの事務局をやらされていたからだ。
――ネットチームも仕事量が増えていた。紙媒体だけでなく、ネットとの連携をどの雑誌も図り始めていた。

そして電子書籍も注目され始めていた。
巷ではとっくに注目されていたが、紙を捨てきれない出版社は乗り気ではない一面もあった。
印刷会社との兼ね合いや、流通の問題など、社会のしがらみもあったと聞く。(第二の職場の人から聞いたのではなく、それこそインターネットなどの情報だ。)

そこで紙を離れてデジタルに生きている人たちを集めた座談会と、やはり紙を捨てきれないアナログな人たちを集めた座談会を開催し、意識の違いや今後の展望を探ろうという計画が、ちょうど進行中だった。
この座談会やインタビューは、目黒さんに準備などの雑用が一任され、わたしは記録係をおおせつかっていた。
座談会は何度か開催されていたが、これは重要度が違った。社運をかけたとまでは言わないが、目黒さんの意気込みではそのくらいの重要なものだった。
いつもは目黒さんが司会をするが、外部のプロを呼んできたり、分析はプロに頼む予定だったり、力が入っていた。

何人か集めた座談会、その中で「もっとこの人に話を聞きたい」とピックアップされた、デジタル・アナログそれぞれの典型の人たちへのインタビュー、おうち訪問。
それからわたしが記録をまとめて清書したものをプリントアウト、プロが分析した結果をもとに社内でまた検討会。

この一連の計画のインタビューやおうち訪問の最中に、地震は起こった。

インタビューやおうち訪問は出席人数が少なく、質問者と回答者がすぐに聞き分けられるので、わたしは現場に居合わせることなくテープを聴いて会話を起こしていた。
あるアナログの人におうち訪問をしたときはまだ地震前で、平和な会話がえんえんと2時間半続いていた。
紙を愛する気持ちや、その人の普段の生活ぶり、好きなもの・ことなどが語られている。

あるデジタルの人が第二の職場でインタビューに応じているテープでは、もう地震後だったので、話はどうしても「あのときのこと」になってしまう。
別のアナログの人のおうち訪問でも、話は「あのときのこと」と「それ以後のこと」が主体になっていた。

瑣末なことだが、おうち訪問を承諾してくれた人はご自宅に伺ってインタビュー、家には招けないという人の場合は社に来てもらってインタビューだった。
だから『おうち訪問』と『インタビュー』があるのだ。

「デジタルの人」とされた女性は、地震当日のことについていろいろと語っていた。
この人は仕事をしていたのだったか、主婦だったのか忘れたが、いろいろなイベントによく行く人だった。
ブログモニターをしていて、面白そうなものはすぐに申し込み、参加。
協賛メーカーの試供品をもらえたり、商品をおみやげにもらえたりするし、パーティーではおいしい食べ物や飲み物も出る。
ブログでは商品を紹介し、ネット上のつながりもたくさんある。見知らぬ人も大勢楽しみにしているブロガーだ。

地震当日もイベントだかパーティーだかに出かけていて(ということは仕事はしていてもパート程度?)、外出先で地震にあった。

電車は動かないし、家に帰ることもできない。
3月の日はそれほど長くないので、やがて夕闇になっていく。

「もうすっごい何回もツイッターしてました。一人でどうしていいか分からないし。
あのときはすごい、ネットやっててよかったと思いました。
ツイッターを見て、知り合いとかが情報を教えてくれて。
その人は都庁の近くで働いてるんですよ。ちょうど私、新宿にいたから、すぐ都庁のほうに来な!って。
都庁が開放されて、避難所になってるから、外は危ないからすぐに行きなさいって。
それで都庁に行って、そこで一晩過ごしたんですよ。
夜、一人で外にいたら、もうどうしていいか分からないし、すごい有難かったですね。
都庁でも、寝るったって眠れるわけないし、ずーっとネットしてました。
ツイッターしたり、ブログに投稿したり、メールしたり。
一晩中そういうことをしていたから、気もまぎれたし、情報を教えてもらえて安心できたし。誰かとつながっているって思えたし」

でも一晩中って、充電がなくなったりしない?

「もともと、パーティーとか行くと写真もいっぱい撮るし、その場で投稿したりもするし、充電てすぐなくなるんですよ。
だから私はいつも換えのバッテリーを持ち歩いているんですよ」

おお!なるほど!
すごくそう思ったので、わたしはスマートフォンにしようかと思ったとき、iPhoneは躊躇した。換えの充電器がない作りだそうだからだ。
災害のときは、避難所でコンセントをつなぐわけにはいかない。この話を聞いたときから、わたしは持ち歩ける充電器を手に入れるべきだと考えていたからだ。

「友達のうちはマンションで、熱帯魚を飼っていたんですけど、帰ったらその水槽が割れてて、水浸しだったって」
――そうか、確かに。
「うちは帰ったら食器棚とかも倒れてなくて、ホッとしました。お皿なんかが全部出ちゃって割れてたら、後片付けが大変ですもんね」

この人の話をテープに起こして、わたしは心から思った。
とにかく換えバッテリーを手に入れることだ。
充電器は平和なときもののであって、「こっそり会社の電源から充電しちゃえ!」なんていうのは非常時にはできないかもしれないのだから。

携帯も古いのをずっと使っていたが、さすがにバッテリーが弱って、フル充電しても使える時間が短くなりつつあった。
これだけはなるべく早くに新しいものに取り替えた。

でも換えのバッテリーは結局、手に入れていない。
喉もと過ぎて、熱さを忘れてしまったのだろう。

あの日の東京:他の人たちのストーリー 第二の職場

わたしは歩いて帰ることにして、夕方、第二の職場を出たが、残った人たちもいた。

かなり大きな地震があって、電車が止まった――となったとき、隣の経理の島の男性社員は、すぐにコンビニに走っていた。
「**さんは**に住んでいるから――」
「え! **なんですか!? 遠いですね」

わたしと同じターミナル駅を使う。
でもその人の最寄り駅に行くには絶対急行でないとダメだ。時間がかかりすぎる。
距離43.7km、急行に乗って50分ほどかかる。

わたしはそのターミナル駅から10km弱だ。
道はまっすぐではないし、わたしは帰り着くまで3時間半かかった。

運転再開しても、どこかの線路に何か支障があったとか、不具合が発見されたとかすれば、まずは「どこどこ駅まで再開」「どこどこ駅まで運転」と短い区間で運転する場合も多い。
今日中どころか、明日だって動かないかもしれないから、とにかくおろせるうちにまとまったお金をおろしておかなくてはならない。

さすが、経理に配属されるような男性は、危機管理ができているのかもしれない。
わたしなど、銀行口座のことなど思い浮かばなかった。

同じチームだった渋谷さん、葛飾さん、板橋さんは、会社で朝を待ったそうだ。
大きな会議室ではテレビもあり、普段はめったにつくこともないが、この日はニュースを見ることができた。

会議室は軽く休んだり、仮眠をとったりできるよう、総務の人たちが準備をした。
でも個室ではないし、人の出入りもあるし、落ち着いて仮眠したりはできなかったろう。

わたしはきっと、会社に残っていてもあまり利用できなかったに違いない。
派遣だし、単発みたいな働き方だから、他の部署の社員さんなどほとんど面識がない。こっちが知っていても、向こうは知らない。
そんな壁などどうでもよくなるほど、極限状態には至っていなかった。

朝は何時から電車が動いたか知らないのだが、大事をとって10時くらいに出たそうだ。
「昼前には家に着きましたよ」
「私も」
目黒さんが言っていた。
「渋谷さん、ちゃんと残業、請求してね~。夜10時くらいまで仕事してたでしょう~」
「そうですね、そのくらいまでやってましたね。どうせすることもないから、仕事しようと思ったんで」

多少無理をしても帰って本当に良かった。
話を聞いてわたしはしみじみ思ったものである。

電車は夜遅くなって運行を再開した路線もあった。
「あ、その路線が再開したなら、わたしはもっと楽に帰れたかも」と思う路線もあった。
でもたぶん、歩いて正解だった。

運転再開したというので駅に行ったが、人の数がものすごくて、全然電車に乗れず、結局会社に帰ったという知人の話も聞いた。
大きな駅でそれだけ乗り込んできたら、途中の駅では待っている人自体は少なくても、やはり乗れなかっただろう。

同じ部署だけどチームは違う大田さんと品川さん。

男性の大田さんはその日、半休をとっていた。
金曜だったので、そのまま週末に突入だ。
就業時間を半分に分けると、14時15分になる。
大田さんはその頃「じゃ、今日は半休とりますので。あとはよろしく」と品川さんに言って、会社を出た。

1時間にはまだならないかというとき、あの地震だった。
大田さんは郊外に家がある。東京都ではなく隣接県。
電車が全部止まってしまったときから、何度か「大田さん、間に合わなかったんじゃない?」というセリフを聞いた。
後日――もうずっと後になった後日、聞いてみたら間に合わなかったそうだ。

「間に合わなかったよ!
**駅で地震が発生しちゃったからね。
朝まで**駅にいたよ!」
――あともう10分か15分で最寄り駅でしたね。いや、各停だったら20分かな。

高架線路を相当なスピードで走る路線だから、歩ける気はしない。

品川さんのほうは、たぶん歩こうと思えば歩ける。わたしが家に帰るよりずっと近い。
タクシーがうまくつかまればそれほどの金額を出さなくても帰れる。

でもきっと、そうまでして必死に帰る自分というのが、美意識に合わなかったのだと思う。
シングルのキャリアウーマンだったし、心配な家族もいない。
総務部の手伝いをすることになって、いきいき仕事をしていた。
そのまま会社で、陣頭指揮をとる総務部の管理職に交じって朝まで指揮をとったようだ。

一番いい夜を過ごしたと言われたのが、荒川さんたちのチームだった。
荒川さんは以前、わたしと一緒に目黒さんのチームにいた。
でもいろいろあって異動し、社がクライアントなどと共に催すイベントを企画・運営するチームに移った。

その日はちょうどイベントで、有名なホテルだか結婚式場だかにいた。
夕方には終わるはずのイベントだったが、地震発生。
電車も停止し、お客もスタッフも身動きがとれなくなってしまった。

すると会場側が、「こんな状態では帰れないだろうから、どうぞこのままいてください」と申し出てくれた。
会場は夕方までしか借りていないし、いつも経費節約のために急いで後片付けをして、すぐに出るのだそうだが。

イベントに抽選などで当たって参加していた人たちもいることだし、有難く申し出を受けて、会場にいさせてもらったそうだ。

電車はいつまで経っても動かず、結局一夜を明かしてしまったが、会場スタッフがとても親切な対応をしてくれたと第二の職場では後々まで語り草になっていた。
毛布やブランケットなどを用意してくれて、使われてくれた。
ペットボトル飲料などを配ってくれた。
おにぎりなども急遽用意して配ってくれた。
会場スタッフの人たちは不安な様子を見せず、すべて笑顔で対応してくれたという。

さすがは**、有名どころはやはりスタッフ一人一人にいたるまでしっかりしているし、上の決断も早く危機管理ができているのか。
自分たちだけならともかく、読者をお客としてイベントに呼んでいるので、第二の職場の人たちは本当に有難かったようだ。

これまた以前、目黒さんのチームにいて異動していった中野さんも、この日お手伝いに借り出されていた。
中野さんは後日、このときの様子を語りながら、言っていた。
「それでね、**さんが、中野さん、これはもう中野さんの結婚式、ここでやるしかないねって(笑)」
――中野さんは、熱心に婚活しているわけではないが、結婚を夢見ることを諦めたわけでもない、という時期だった。

2年半が経った今、中野さんはまだ結婚に至っていないが、そのときが来たらあの場所で結婚式をするだろうか。
なんとかしてこの感謝の気持ちを形にして返したい――わたしが物資を送ってくれたブログ友達に感じたような気持ちを、このとき**にお世話になった人たちは感じているらしい。

あの日の東京:スーパーにて

わが家は、いつもミネラルウォーターを買っていた。
ちょうど在庫がなくなりかけていたので、翌日の土曜日、のんびり買い物に出かけた。

少なくとも自分たちとそれぞれの実家にはケガ人もなく、雨露をしのぐ家も残っていた。
だから、危機慣れていないわたしたちは、本当にのんきだったのだ。

スーパーに入ると、棚はガランとしていた。
ミネラルウォーターどころか、野菜や肉なども品薄だった。

一番近いスーパーに夫と向かっているときは、「ナマモノをたくさん買うのは避けたほうがいいね」「停電になるかもしれないって言ってるからなぁ」などと話していた。
しかし着いてみると、避けるも何も、買うものなんてない状態だった。

地震でガラスが割れ落ちているところがあって、その部分は「近寄らないでください」と
工事用の三角コーンと黄色いテープで仕切られていた。
どこかの子供たちが店内の通路を走りながら、「停電になるからね!」と言っていた。

地震の翌日だから仕方がない、いずれ商品は復活するだろうと気楽に構えていたが、そんなたやすいことではなかった。

長期間になるという張り紙が、すでにスーパーには出始めていた。
あるスーパーでは、「物流体制の今後も分からず、次の入荷の見込みも立たない」と店内アナウンス。
駐車場は車で来た人が入りきれず、駐車待ち。
その後に行ったスーパーでは、もっと何もなく商品はわずかだった。
保存食になりそうなものの棚は空っぽ。
「物流体制が整わず、商品入荷の予定が立ちません。申し訳ございません。
入荷次第順次品出しいたしますが、あらかじめご了承ください。
(本日入荷するか? 予定が立ちません。
(物流センターの復旧に全力をあげていますので、ご理解とご了承をお願い申し上げます。)」
と張り紙があちこちに貼られている。

トイレットペーパーの棚は空っぽだが、柔軟剤やシャンプーなどの棚は商品があった。
カップ麺やうどんは空っぽだったが、冷凍食品はあった。
停電の計画を既に聞いているので、うちも冷凍食品には手を出さない。

当時、スーパーでパートをしていた人は言っていた。
「商品を取り合って売り場で喧嘩を始める人もいたし、人間性ってものを疑う悲しい場面に出会った」

地震のとき、緊迫する夜の街でも整然と列を作り、日本人は秩序を守ると言われたけれど、自分や家族の身を守らなければならないのだから必死にもなる。
トイレットペーパーやテュッシュの在庫を確保しなくてはならないし、乳幼児がいる人は
水や食べ物も確保したい。

それでも人々はまだ理性的で、節度を保っていたと思う。
第一の職場でも第二の職場でも、職場のトイレットペーパーが強奪され尽くすということはなかった。
トイレットペーパーやテュッシュは、製造している会社がダメージを受けたり、被災地に優先的に送られたりして、とても品薄だったのに。

どの土地でも人間性は変わらないけれど、東京で流れていた殺伐とした空気は、人間の結びつきが希薄だったからだと思う。
普段はご近所づきあいやら親類縁者、地域のグループや寄り合いや組合、そういった煩わしいものが少なくて暮らしやすい。
でもそれは、非常時には自分で自分の身を守らなければならないということだ。
わたしは実家近辺の「ムラ的な」付き合いが苦手で、他人にあまり関わらない生活が気楽で良かった。
ところがひとたび緊急時になると、あの鬱陶しかったご近所づきあいの有難い一面に気づかされてしまった。

――そんな単純なものではなく、結びつきが強くたって利己主義はあるだろうし、殺伐としたものもあるのだろうけど。
ただとにかく、自分の中にも「誰も助けてくれない。自分以外頼れない」という思いがあったし、多くの人にもあったろうと想像する。

とても有難いとしみじみ感激したのは、ブログでやり取りをしていた神戸の人から物資が送られてきたことだ。
阪神大震災の後は街から物資が消えたといって、トイレットペーパーやテュッシュを大きなダンボールで送ってくれた。
娘さんが東京で働いていて、住まいは千葉だったので、娘さんに送るついでに知り合いにも送ってくれていたらしい。

中には大型と小型の懐中電灯と乾電池も入っていた。
キャンプ用品に使われるしっかりしたものだった。
身内に送るため、関西でもどんどん売り切れて、すぐに手に入らなくなった。

実に行動の早い有能な人で、かなり早いタイミングでそれらが送られてきて、とても驚いた。
だって、ブログでしか知らない相手にそこまでしてくれるなんて。信じられない思いだった。

前も書いたがわたしの根っこのすべては関東にある。
夫を併せて考えても、すべて東日本にある。
無事な地域から豊富な援助の手を差し伸べてくれる知り合いは、皆無だった。
大地震が東京を襲ったら、どうする? そんな緊急のとき宮城までは行けないだろうから、
わたしの実家に一時避難する?
――そんなことを話したこともあったけれど、宮城に避難どころか、茨城だって東京より被害が大きい。
実家は何日も停電していたし、余震は東京より多く、また大きかった。

このブログ友達の心遣いがどれだけ有難かったか、筆舌に尽くしがたい。
現実的に物も有難かったが、それよりも気にかけてくれたということが、救いだったし心の拠り所になった。
そりゃ、甘えることのできる関係ではないけれど、根なし草を続けてきたわたしは本当に心細く感じていたのだ。
何度お礼を言っても足りなかった。

地震があったばかりの土曜は、不安で携帯を必ず持ち歩くようにしていた。
そうしたらメールがきて、どこからだろう?と思って、すぐに折り返した。

――登録している派遣会社のひとつからだった。
「来週からの、損害保険会社での地震保険に関するお問い合わせ対応の仕事」だった。
電話応対をして、報告書に記入するだけの仕事ですから、と言われた。

依頼を受けはしなかったが、急募であり、時給は高めだった。

あの日の東京:夫のストーリー

夫はあの日、家にいた。
家はマンション。高層マンションではない。10階くらいの建物。うちはどちらかというと下のほうの階。

耐震構造だか免震構造だかで、揺れを大きく感じる。

さぞ揺れただろうと思ったが、やはり「怖かった」と言っていた。
あまりに揺れるので立っていられない。

古いビデオなどを「とりあえず」と適当に入れっぱなしにしていた棚が、倒れて手前のテレビ台に当たり、わたしが帰ったときも斜めになったままだった。
「直してもまた余震があって倒れるかもしれないから、そのままにしている」と言う。
テレビはテレビ台から落ち、それだけは戻していた。

パソコン部屋ではわたしのモニターが床に落ちていた。
割れてはいなかったので、それだけは戻した。

夫は参考書的に使っている専門書をたくさん棚に置いている。
地震のとき、ちょうどパソコンに向かって仕事をしていて、そこに重い専門書がバラバラと落ちてきたそうだ。
とりあえず机の下に入って落ちてくる本を避け、収まるのを待ったがなかなか収まらなかった。

幸いにも食器が壊れて散乱することはなかったし、他に倒れた家具などはなかった。

もともとうちには立派な家具はない。
倒れるものもそれほどないのだが、それでも倒れたり落ちたりしたものと、無事だったものがある。
後日夫が言うには、「向きによるんだと思った」そうだ。

確かにそうかもしれない。
倒れた棚は東向きだった。
同じものでも南向き、北向きのものは倒れなかった。
つまり、家具は壁に沿うことが多いので、90度ずれる。揺れの方向が違ったら、違うほうの向きの家具が倒れたのだろう。

夫は何かが落ちてきてケガをするという事態も避けることができ、やがて地震も収まった。
しかしいったんは収まったが、余震がまたあり、それもかなり大きかったので、夫はもう外に出ることにしたという。
とりあえず財布と携帯だけ持って外に出て、マンション敷地内のベンチというか、椅子というか――そういうところに座っていた。

特に何をするでもなく座っていたそうで、やがて子供連れのお母さんたちがたくさん避難してきたという。
あんなに揺れてはお子さんがいるママたちは不安だろう。
外に出てきて、ママ友同士話したりしていたけれど、夫は一人でただ座っていた。

なかなか余震も収まらないので、ちょっと周辺を歩き回ってみたそうだ。

「あの、小さい店がたくさん入ってる、市場みたいなところ、あそこの近くの公園で水が噴き出してた」
「水が?」
「タンクがあって、水道があるみたいだったんだけど、それに亀裂が入って水がすごい勢いで噴き出してた」

しばらく外にいたが、まだ寒い季節でもあり、中に入った。

わたしは大きな建物の中だったので、揺れるといってもこのマンションよりはどっしりしている。
本当に、震度1でもやたらと揺れたように感じる家なのだ。
わたしが一人で家にいたらトラウマになってしまいそうだが、夫は「すごく揺れて怖かった」とは言っただけだった。

棚が倒れたこと以外に、ひとつ不具合が発生していた。
ほとんどの時間を過ごす部屋の窓ガラスが、うまくはまらなくなっていた。
すきまが空いてしまって、そこから寒い空気が入り込んでくる。

「そこが空いちゃってるんだよ」と夫が言う。

これは困った問題だが、修理を頼んですぐに来てもらえるものだろうか?
どうやら大変な事態になっているらしいのに――

でもこれは、自然に直ってしまった。
大きな余震も何度かあり、「今のも大きかったね!」と恐ろしがっているうちに、いつのまにか元に戻った。
余震の揺れで正常な位置に戻ったらしい。その後も問題ない。

翌朝、明るくなった外を見ると、向いの一戸建ての屋根瓦が地面に少し散らばっていた。
マンションの中庭のようになっているところに、ベランダから落ちてきたらしいおもちゃやら何やらが散乱していた。

今もわたしは同じところに住み続けているが、長く住むのは怖い気がしている。
地震が来るとミシミシいうようになったのだ。

まずミシミシという音がする。
それから建物が揺れる。
「ああ、地震だ」と分かる。

いくら耐震、免震といっても、あの強い揺れとその後の度重なる余震は、どうやら許容範囲を超えていたようだ。
次があったら耐えられないのではないかと思っている。

あの日の東京:家路に向かう人々

ターミナル駅の反対側に回り、少しずつ遠ざかるにつれて、人は格段に少なくなった。
それでもどう考えてもいつもの夜はこんなにいないと思われる人数が、歩道を歩いていた。

ここまでの道のりにどのくらいかかっただろう?
わたしの頭の中の目安としては、距離は3分の1だった。

職場からまずターミナル駅まで。それから多摩さんの住む地域まで。そこからわたしの家まではさらに1時間近く。

この日、たまたまカッコつけた靴を履いていなくて、本当に良かった。
第二の職場に朝から行くときは、だいたいは失礼なほど何も構わない格好だけど、第一の職場のときは気を遣う。
午前中は第一の職場で、午後から第二の職場ということもある。そういう日だったら、こんなに歩けたとは思えない。
途中で裸足にでもならなければ、体重の重いわたしは歩き通せなかったろう。

多摩さんと共に歩いた道順より、かつて自転車で行ってみた道のほうが早く着いたと思う。
――ただし迷わなければだ。
多少遠回りでも、道を知っている人と歩けて良かった。

わたしはまだターミナル駅に着く前に、夫に電話をしていた。
「歩いて帰る」と伝えると、会社にいたほうが安全じゃないかと言われた。
外にいたら、余震で落ちてきた何かに当たったりする危険もある。
だからなるべく中にいたほうがいい、と注意が出されていたようだ。

その注意は、後からも聞いた。
歩いて帰る人が多かったけれど、それは一番いけないこと。
安全になるまで、会社など建物の中にいたほうがいい。

でも全然後悔していない。
そんなこと、できないもの。

帰れないものは仕方がないと諦めもつくが、帰ろうと思えば帰れたのに朝までなんて、到底我慢できなかったと思う。
なんとしても帰りたかった。家族に会いたかった。落ち着くところに戻りたかった。

――みんな、そうだったのじゃない?

多摩さんは、歩いている間、何度も家や親類の人らしき電話がかかってきて、「ごめんなさい」とわたしに断っては歩きながら電話で話していた。
全然かまわない。歩みが止まらないならば。自分の物思いにふける時間もできるし。

わたしは夫に電話した1回だけで、後はただ歩き続けた。
消息を知りたかった実家とはつながらなかったし、実家に住む妹の携帯にもつながらなかった。

歩き続けて、ようやく多摩さんの住む地域に近づいてきた。
「どうします? どこに出るのが近いですか?」
「多摩さんの通り道を行ってください。そこから先はたぶん行けると思います」

多摩さんほど遠くまで歩いたことはないが、わたしも週末に夫とウォーキングやサイクリングのつもりで出かけたことはある。
多摩さんの家の近くではないが、その近くの駅までは行ってみたことが何度かあるので、帰れると思った。

「じゃあ、その駅まで送りますよ」
「いいえ、そんな、大丈夫です。多摩さんはまっすぐおうちに帰ってください」
「でも旦那はどうせ、職場が**で、今日は帰れそうもないって言ってたし。全然大丈夫ですよ。気にしないでください」
「本当に大丈夫ですよ。A駅までは何度か週末に歩いたり自転車で行ったりしたことがあるし、そこからは帰れると思いますから」
「じゃあ、A駅まで送りますよ」

ここまで案内してもらっただけで充分です、と言ったけど、多摩さんはA駅まで行ってくれると言う。
正直、有難かった。
多摩さんの最寄駅B駅は、A駅と近い。たぶん、15分か20分歩けば着く。
B駅まで行ければ、A駅にも着ける。――実は会計事務所勤務時代、B駅の前を通ってA駅に行っていたことがある。交通費節約で一部歩いて通勤していたのだ。
でもターミナル駅からの道は、わたしが通っていた道とは違っていたので、B駅まで連れて行ってもらわないとよく分からない。
多摩さんは「ここからB駅に行くのもA駅に行くのも、同じような距離だから、どっちでもいい」と言ってくれて、A駅に向かってもらった。

もうすっかり住宅街。
歩いている人の数はぐんと減って、まばらになった。
それでも、地元の人ではないように見える人が、静かな暗い夜の住宅街に2人3人といるのは、不思議な風景だった。

先を迷いながら歩いている女性を追い越しそうになったとき、その人が声をかけてきた。
「A駅はこの先でいいのでしょうか?」

わたしには分からなかったが、多摩さんが答えた。
「ええ、この先ですよ。一緒に行きましょうか?」
「ありがとうございます。迷っちゃって――」

すると、道の反対側を歩いていた女性も近寄ってきた。
「A駅に行くんですか?」

4人に増えた女性チームで歩いて行くと、大きめのカバンを抱えた女性も近寄って来て、一団に加わった。
加わった3人の女性たちは、大きなカバンを抱えた人がわたしよりも若そうに見え、最初に声をかけてきた人がわたしよりも年上そうに見えた。
大きなカバンを抱えた人は、わたしが目指す最寄駅より2つ先の駅まで行くそうだ。母親のいる実家に行くという。

見知らぬ者同士が声をかけあって、一緒に話をしながら歩いて行くなんて、普段は見かけることがない。

駅近くで、案内してくれた多摩さんと別れた。
その後、幹線道路沿いを4人で歩いて行った。

わたしは一刻も早く家に着きたかったので、なんとなく速足だった。
他の人たちがそれほど速くなかったので、少しスピードを緩めていたが、完全に合わせてはいなかった。

緊急事態で結びついた関係は、わたしのせいで壊れたのかもしれない。

大きなカバンを抱えた若い女性が、バス停のところで立ち止まった。
「ここ、**駅行きのバスも通るんですね。私、ここで待ってみます」

バスは来ないかもしれない。けど、来るかもしれない。
歩いてもここから**駅まで、2時間はかかるだろう。
彼女のスピードならもう少しかかるかもしれない。だって、大きいカバンも抱えているのだ。
「タクシーが通ったら、それでもいいし。待ってみてバスが来なかったら、また歩くことにします」

1人、そこで別れた。

少し歩いたところで、一番年上そうに見えた女性が、「私は歩くのが遅いから、先に行ってください」と言った。
そこでまた、1人、別れた。

2人になったので、「お互い自分のペースで歩きましょう。もう道も分かるし」ということになり、わたしは好きなだけ速足で歩くことになった。
もう1人の人は、年上の女性よりは速く、わたしよりは遅いペースで歩いているようだった。

歩いていると、妹が電話してきた。「みんな無事」
家は倒壊していないし、タンスが倒れて誰かが下敷きになったりもしていない、と教えてくれた。

妹はずっと職場にいたという。
学校が職場なので、指定避難場所になっていて、職員は対応に追われて帰れないそうだ。
「ほかの先生たちはまだ学校にいるんだけど、家と連絡がとれなくて心配だからって帰してもらったの」と言っていた。

歩いているうちに夫ともう一度連絡をとった。
宮城の実家と連絡が取れたという。
家はなんともなく、ただ停電しているらしい。
義父母は元気で、「なんともなかった」と自慢気に話していたそうだ。

あと30分くらいで着くかと思う頃、出てきた第二の職場から連絡があった。
帰宅した人の管理のため、確認をしていたらしい。
同じ部署で、総務部の手伝いをしていた品川さんからだった。

品川さんは都心住まいなので、帰ろうと思えば帰れたと思うが、どうやら残ったらしい。
「あと30分ほどで着きますから大丈夫です」と答えて、これで帰宅報告終了とした。

もうすぐ着くという頃、ブロ友さんのブログにコメントを残した。
阪神大震災を経験しているお嬢さんが東京で働いているので、大丈夫ですか、と伝えておいた。
後から思えばのんきな話だ。

ようやく家に帰り着いて、テレビを見ると、大変なことになっていることが分かったのだった。

あの日の東京:夜の東京

多摩さんと一緒に会社を出て、いつも使う駅を通り過ぎて歩いて行った。
まずはいつも使う駅から3つめのターミナル駅を目指す。ーー新宿とか渋谷とか池袋とか、そういった駅だ。

ターミナル駅への道は人がたくさんいた。
普段はこんな道を歩いている人はいないだろう。
誰もがこの道がターミナル駅への道だと知っているのだろうか。
大勢の人が同じ方向に歩いて行く。

途中、歩道が狭くなるところでは、道とは思えないほどの行列だった。
美術館で特別展示の貴重な美術品を見るために、2列に並んでのろのろと進んでいくときのよう。
花火大会の日の混んだ駅の構内で、改札やホームまで列に並んでのろのろと歩くときのよう。

そのまま遅々とした行列で歩道橋の階段を上った。
ギッシリと隙間もない状態で、追い越すなんて無理な話だった。
行列のスピードに合わせて牛歩の歩みで進んでいくしかなかった。

やがてまた広い道に出て、行列ではなくなったが、ターミナル駅に近づくにつれて人は多くなってきた。

「私はどの職場でも、一度は歩いているんですよ」
多摩さんはどうして道を知っているのか聞いたところ、そう言っていた。
「なんかあったときのためってほどじゃないけど、道を知ってると安心じゃないですか。
まあ、運動不足解消にときどき週末旦那と歩くんで、行ってみようかって歩いてみるんですよ」

いつか友人が、災害時用にマップを持ち歩いて、何かあったら歩いて帰れるようにすると言うのを聞いてなるほどと思ったが、実践はしていなかった。
災害のニュースなどを見ると、準備をしておかなければと思うけれど、喉元過ぎると忘れてしまう。

一緒に帰る人がいたおかげで、話をしながら気を紛らわすことができた。
道を知っているという人が一緒なので不安も少ない。

やがて急に自分の知っている場所に出た。
「ああ、ここに出るんですね!」
「そうなんですよ。もうまっすぐ行けば駅です」

人がたくさんいた。

バス停にはバスを待つ人が、ずらーっとどこまでも並んでいた。
列はバス停から歩道に溢れ、2、30メートル先の交差点のところで折れ曲がって、ずっと先まで続いていた。
来るのかどうかも定かでないバス。来たとしてもとても一度で乗れる人数ではない列。
1人でここに並ぶことになったら、とても不安だろうと思った。

ただ大きい駅の周りは灯りが多い。人も多い。
暗い見知らぬ住宅街よりなんとなく心強いようにも思える。
一方で、一触即発の張り詰めた心持ちの他人同士が集まっているのは、落ち着かないようにも感じた。

タクシー乗り場も人が並んでいたが、バス以上に来るかどうか分からないためか、バスを待つ人よりは少なかった。

交番の前を通ると、お巡りさんに道を聞いている人がいた。
ここにも列ができていて、数人が道を聞くために待っていた。
「**に行くにはあっちの方向に歩いて行けばいいんですかね?」
会話が洩れ聞こえてきたが、そんなことを聞いても交番の人も困っただろう。
この近辺のことを聞かれるなら普段から勉強しているだろうけど、たとえば有楽町駅で「房総半島に歩いて帰るには、あっちの道を行けばいいんですかね?」と聞かれても、きっと困っただろうと思う。
房総は大げさだけど、そういう人がいっぱいいたに違いない。
「千葉の船橋に帰りたいんですけど、あっちですか?」「埼玉に行きたいんですけど、大宮はあの道ですか?」

わたしは多摩さんの後について、交番の脇を素通りした。
多摩さんは「携帯やスマートフォンが発達した時代なんだから、Googleマップとか、見たらいいのに」と言っていたが、2年くらい経って思い出話をしたとき、言っていた。
「あのときはああ言ったけど、見られないようになっていたんですね。後から分かって、訂正したいと思ってたんですよ」
携帯会社の規制だと言っていたか、あのときインターネットが見られなかったと言っていたのか、忘れてしまったが。

百貨店はシャッターを下ろし、「安全確認のため閉店」と張り紙が張ってあった。
駅前のドラッグストアも閉店していた。

でも飲食店は開いているところが多く、電気は来ているのだなぁと思った。
店に入っている人もたくさんいる。ひとやすみかもしれないし、屋根のあるところで夜を過ごそうという人かもしれない。

「反対側に出たいので、駅を抜けたほうが早いんです」
多摩さんが言うので、わたしたちは駅の構内に入った。

駅にはそれなりに人がいたが、バス停ほどではなかった。
やはり電車が動いていないから?

そう考えながら駅の中を進んで行くと、アナウンスが聞こえてきた。
「閉鎖されている出口もあるので、構内に入った人は注意するように」という放送だった。

アナウンスは繰り返し同じことを言っていた。

家に帰ることを諦め、明日の始発の運転再開を待つ人たちが、駅構内の外縁部の床に座り込んでいる。
わたしたちは奥のほうまで入って行ってしまったが、もうシャッターが降りているところもあったし、人けもだいぶなくなっていた。

座り込んでいるのは若い人が多かった。
家庭を持つ人は、なんとかして家に帰ろうと、バス停やタクシー乗り場に並んでいるのかもしれない。
まだ時刻は7時になっていなくて、諦めた人はそう多くなかった。

わたしたちは閉鎖されていない部分を通って、反対側に出ることができた。

駅構内のトイレは長蛇の列だった。やはり飲み物は控えておいてよかった。

反対側では大手家電量販店の前で、店員さんがメガホンで叫んでいた。
「トイレをご利用の方は、特に女性用トイレは大変並んでおります。ご了承の上、入店ください!」

今通って来た、駅の栄えている正面の側より、裏手は少し人が少なかった。
とても高いヒールの美人を見て、「あの靴で今夜、家に帰り着くにしろ外で過ごすにしろ、もつのだろうか」と思わずにはいられなかった。
杖を手にしたスーツ姿の中高年男性が横断歩道を渡って行くのを見て、「大丈夫だろうか」という思いが浮かんだ。
――でも何もできなかった。何も言えなかった。

わたしはこの駅の光景を忘れないだろうと思った。

会社に残った人たちは見なかった、この光景。
駅の周囲を埋め尽くす異様な数の人々。
おとなしく並んでいるバス待ちの列――でも、いつ均衡が崩れるか分からない。そのとき何が起こるか分からない。
来るかどうか分からないタクシーを待つ人の列。
どんな遠くでも歩いて行くつもりで、交番で道を聞いている人々。
駅の構内に座り込む人々。
誰もそれを「あんなところに座り込むなんて」と眉をひそめない状況。
とにかくシャッターを下ろしてしまう駅。閉めだされた人々。

そしてそれでもここは、震源地ではないし、それに東京である。
灯りはともり、店は開いている。
路上で座り込む気のない人たちを受け入れて、店は営業をしているのだった。

サービス業でなくて良かった、と強く思った。
きっと自分のシフトが終わっても、「残ってくれないかな」と言われたに違いない。
「夜の**さんが、電車が動いてなくて来られないんだよ」「帰れなくて客が増えるだろうから、忙しくなると思うから」

後から聞いたところでは、わたしの属するチームの人は、目黒さんを始めアルバイトさんも同じ派遣会社のスタッフも、全員が翌日まで会社にいたらしい。
誰も歩ける距離ではなく、どうしても帰りたいと願った葛飾さんも、帰ることはできなかった。
翌日、土曜日の10時頃になってから、ようやく会社を出たという。

その人たちは、こんな光景を見なかった。
その代わり、会社でいろいろな人間模様を見たろう。それはその人たちの物語だ。

わたしはあの夜見た、**駅の異様な光景と異様な空気を忘れない。

あの日の東京:夜に向かって

同じ方向だと分かった人は、もうとっくに帰った後だった。
お子さんが幼稚園くらいだそうで、大きな地震だったから心配になって即帰宅したらしい。

のんきにしていたわたしは出遅れて、どうしていいか困っていた。
たぶん、道は分かると思う。
以前、自転車で一度だけ、ある公園に行ったことがあった。週末にサイクリングみたいな気分で遠出して、桜を見たりしたのだった。
第二の職場からその公園までは歩いて行ける。たぶん20分くらいのもの。
そこから家まで、それほど複雑な道ではなかったはず。距離はあったが、大きな通りをまっすぐだった。

――でもあんな大きな幹線道路、歩いていて道に迷っても、聞こうにも人なんていないのじゃないだろうか?

「**部の人たちはみんな、早かったらしいわ~ もうほとんど誰もいないんだもの、びっくりしちゃった~」
目黒さんは素かポーズか、のんきそうに話しながら席に戻っていく。
でもわたしはそののんきさに癒されない。
「他に誰もいませんよね――」
「あんまりいないわよねぇ、××区なんて」

――仕方ない、なんとかして一人で帰るべきだろうか?
道が分からなくなったら、夫に電話すれば教えてくれると思う。
でも電話がいつまで通じのるか?

実はもう一人、同じ方向の人がいた。
でも方向性が同じというだけで、すごく近くというわけではない。
たとえば、関東から、東北に向かうか近畿に向かうかと言ったら、同じ東北に向かう、というイメージ。
だけど宮城と山形なので、実際は山形に向けてまっすぐ行ったほうが近いが、宮城にいったん出て、そこから道を曲がって山形の方向に向かわなければならない。そんな感じだろうか?

でも一人で迷うよりはいいのではないだろうか?

総務とは反対側のお隣、経理部の島のアルバイトさんだ。
まだ働いているのが見えていた。仮に多摩さんという名前にしておこう。

「多摩さん、どうされるんですか? 歩いて帰ります?」
聞いてみると、電車が動かなければ歩いて帰ることを検討しているという。
「私は前に歩いてみたことがあるんですよ。旦那と二人で休日に散歩がてら来てみたんです。だから道は分かるから」
「そうなんですか!? もしできれば、一緒に連れていっていただけませんか?」
「いいですよ。私、定時まで仕事をしていくつもりなので、6時になったら、一緒に帰りましょう」
「え、定時まで仕事をするんですか!?」

――わたしより上がいた。
このときになってもまだ、定時まで仕事をしていこうとは!

「もう夕方ですぐ暗くなってしまうでしょうし、不安じゃないですか?」
わたしは歩いて帰るとなったなら、一刻も早く出たかった。
「でも仕事が終わらなくて。じゃあ、なるべく早く切り上げて、5時半には出られるようにします。それでいいですか?」

少しでも明るいうちに今すぐ自力で歩き始めるか、道案内をしてくれる人がいたほうがいいから5時半まで待つか、選択は難しかった。
――とはいえ、もう4時半を回っている。自力で歩き始めてもすぐに暗くなるだろう。
「分かりました。待ちます。一緒に連れて行ってください」

総務部は腰を上げた。
会社のあるフロアのエレベーター前に長テーブルを設置。
係になった管理職が常時座っていて、退社する人の部署や名前、どんな手段でどこまで帰るか、を記録することにした。

社内全体に、帰れる人は終業時間を待たずに帰るようにと通達。
遠い人のために大きな会議室を休憩所にすることにし、準備を始めた。
非常用にミネラルウォーターやおにぎりやパンなどを買いに行き、会議用のテーブルや椅子などはレイアウトを変更した。(どう変更したかは、わたしは見ていないので分からない。休憩をとりやすいように変えたようだ。)

目黒さんも「そうだわ!」と思いつく。
「板橋さん、座談会用に買ったペットボトル、余っているのがあったわよね?」
「ありましたね」
それをチームの人たちに配った。
わたしは歩いて帰るつもりだったので持ち帰ったが、他の人たちは誰も帰れない距離だったので、社内で夜にでも飲むことになったのだろう。

わたしは気が気でなく、何度も多摩さんの様子を見た。
耐え切れずに2度ほど「多摩さん、仕事、終わりそうですか?」と聞いたので、「そんなに心配なら帰りましょう」と早めに切り上げてくれた。

でも会社を出たのは5時12分。
早めといっても、予定の5時半より15分ほど早いだけだった。

辺りには夕闇が広がり始めていた。

あの日の東京:帰宅難民

とにかく電車が止まってしまっているのだし、帰ろうにも帰れない。
電車の運行再開まで仕事をしていよう。
そう思って仕事をしていた。

まさか一晩中動かないなんてことは、思いもしなかったのだ。

東京でも車があったほうが断然便利という地域もあるが、駐車場の確保や料金を考えると面倒のほうが多いという場所もある。
23区と単純には言えないが、(23区でもわたしが住むところは車については便利・不便が半々の地域)、そういった一帯では電車は生命線。
めったなことで全滅したりしない。

地震が起こったのは3時台だった。
復旧に時間がかかっても、終業時間の6時には再開しているだろう。

それからときどきネットの運行状況を見ながら、仕事を続けた。
会社からインターネットを見ることに対して、規制のゆるい会社なのだ。
この時点では誰も、あの津波も知らず、「震源は東北らしい」という情報くらいだった。

わたしの実家は茨城県で、東京より北にある。
家ではタンスなど倒れなかったか心配になったが、携帯もすぐに不通になった。
その後、妹の携帯に連絡がとれても、妹も職場にいて、家の電話は不通だから状況が分からないと言っていた。
いつの時点で連絡がとれたのか、正確には忘れてしまった。

夫の実家は宮城県だが、電話が通じるわけでもないし、義父母は携帯も持っていない。そちらの心配は夫に任せることにした。

時間は過ぎていったが、一向に電車の運行再開の情報は入って来ない。

外を走る高速道路では普通に車やトラックが走っていたが、何度も余震で大きく揺れたので、ついに閉鎖が始まった。
やがて走っていた車もいなくなり、高速道路は車の影がなくなった。

4時半を過ぎると少しばかり不安になってきた。
以前に台風の影響で電車が不通になり、夜9時過ぎまで職場にいたことがあった。(派遣単発時代の章の大学事務のときだ。)
あんなのはごめんこうむりたい。
家や実家がどうなったか心配だったし、どうやら東北では大変なことになっているらしいという話も伝わってきて、さらに余震は断続的に何度もあったので、不安感が募っていた。
そんなときに会社で何時間も夜を過ごしたくない。

わたしは焦り始めた。
どうしよう?

隣の島の総務部の動きもだんだんと活発になってきた。
近いのでその様子が伝わってくる。
わたしと同じ部だがチームが違う品川さんも、総務を手伝い始めた。
品川さんとペアになっている大田さんは、その日早退していた。たぶん家に帰り着くのは間に合わなかっただろう、という時間に。
(間に合わず、途中の駅で震災発生。駅で一夜を明かしたそうだ。)

「**さんが××通りまで行ってみたけど、もうバスも全然来ないって」
「やっと来ても人がいっぱいで、乗れないからって停まってもドアを開けないで、素通りしてるって」
「タクシーも全然つかまらない。たまに走ってても誰かが乗ってる」

上司の目黒さんは、気丈に振舞おうとしているのか、不安を和らげようとしているのか、どこ吹く風といった様子だった。
「あたしはどうせダメだもの~」――強風が吹いてもすぐ止まる路線なのだ。
「いいの。千代田さんと同じ路線だから、千代田さんが帰るときに一緒に帰るから~」

・・・・・・人は自分の状況が悪いときは寛容にはなれないものである。

「あなたのことなんて聞いてない。上司なら部下の心配もしてください」と思ってしまう。

目黒さんの作戦(か素か知らないが)は、裏目に出てだいぶ下からの評価を下げた。

若い葛飾さんはもう仕事なんて手につかず、怖がるばかり。
余震があるたびに、「やだ~! 怖い~!」と泣きそうになっていたが、電車が動かないので帰れずにいた。
目黒さんは葛飾さんに「死ぬときはあたしたちみんな一緒だから大丈夫よ」とそのたびに明るく冗談のように言っていた。

これもまた、「どうしてみんな一緒だったら大丈夫なのか?」「みんな一緒だったら何が大丈夫なのか?」という疑問がわいた。

わたしが電車のことを心配しても、目黒さんは面白がっているようなふうをする。
「全員会社に泊まるしかないわね~、あはは~」

総務部の男性が、急ぎ足で総務の島に向かいながら、大声で言った。(もともと声が大きい人なのだ。)
「みんな、歩いてる! どの会社もとっくに見切りをつけて、歩いて帰れる人は帰ってるんだよ。うちものんきにしてられないよ!」

もう電車は動かない可能性が高い。待っていられない。
バスも来ない。来ても乗れないくらい混んでいて、乗せてもらえない。次を待てと言われても、その「次」とやらは本当に来るの?
タクシーはもう見かけることさえ稀になっているという。見かけても空車はない。
――たぶん、偶然たまたま誰かが降りたところをつかまえるというのは、無理だ。
誰もが都心から遠ざかるのだから、都心で見かけるタクシーは人を降ろすことなんてない。

同じチームの人たちは、とても歩いて帰れる距離ではなかった。
でもわたしは微妙な距離だ。
たまに「健康のために会社まで1時間、自転車で通ってる」という奇特な人がいる。そういう人がいてもおかしくない距離だった。

何時間かかっても帰りたい!

「目黒さん、わたしも歩いて帰ろうと思いますけど、(えー、大変ねぇ~)、もう暗くなるから道が分かるかどうか心配です。(そうよね~)
誰か同じ方向の人を知りませんか?」
「○○さんがどこに住んでるか、覚えてないわー。どこだっけ?」
「××区です」
「いたかしら? 誰もいないんじゃないかしら? ――そういえば、**さんが確か、**だったと思うわ」
「あ、そうなんですか! そこなら近いので、もしご一緒できたら有難いです。でもわたしは**さんを知らないのですが」
「**部の人よ」

――わたしは単発としてやってきて、そして単発を継続し続けるような勤務形態なので、よその部や人をまったく知らない。
それは目黒さんもよく知っているはずだ。

「分かったわ、一緒に行ってあげるわよ」
「・・・・・・ありがとうございます」

**部の近くに行ったところで、わたしは待っていた。
目黒さんは島の奥のほうまで入って行き、その場にいた人に何か聞いた。
「もう帰ったって~」

わたしはガックリした。その場所ならよく行くので知っている。歩いても30分もすれば着くと思ったのに。
目黒さんは自分の席に戻るときも、明るくのんきな笑顔で「みんな、早いわねぇ~」と言っていた。

どっしり構えて、部下たちの心の支えになろうと思っていたのなら、そのお気持ちは有難いけれど、残念ながら的外れに感じた。

あの日の東京:地震発生

小さなことでもキャアキャア言ってみるのが、女の子というものである。
体に感じる地震があったなら、「地震?」「地震!?」「や!地震!」という声があちこちから出る。

わたしは第一と第二と、2つの職場をかけもちしているが、その日は第二の職場だった。
第二の職場は出版社見聞録の章で書いたところで、直属上司は目黒さんという女性。
派遣スタッフとして働いていた。
この会社はアルバイトさんが多く、派遣スタッフはあまりいなかった。

女性が多い職場なので、「やぁ~!」「大きいよお~!」「え~!」と、いろいろな声が飛び交い、同じチームの若いアルバイト葛飾さんは最初からビクビクしていた。
地震が嫌いなのだそうだ。

わたしも地震は嫌いで恐ろしいけど、女の子の年代はとうに過ぎたし、アピールしたい素敵な男性もいなかったので、とりあえず仕事を続けることにした。
大きな地震ではあったけど、翌週の中頃から第一の職場に行き詰めになるので、仕事が押していたのだ。

わたしはもう40で、若い人よりすれていたのだと、今は思う。
子供の頃は関東大震災の話をマンガやTV番組で見ることがよくあって、地震をとても怖がっていたが、大地震に会うこともなく生きてきた。
大人になって阪神大震災や中越の大地震などがあったけれど、それは直接自分の身に体験しなかった。
たとえばそのとき揺れたりしたとしても、それで電車が止まったり、スーパーに物がなくなったりしたことはない。
わたしは生まれも育ちも関東で、親類縁者も友達も関東で、すべての根っこが関東にある。
阪神大震災の後はたくさんの紹介番組があったけれど、それを体験した人は周囲にさえいなかった。
TVや雑誌などの関節的知識しかなかったのである。

それよりも仕事が終わらないほうが恐ろしかった。
目黒さんはいい人で、「締め切りはないわ。いつでもいいわよ」と言うが、論理的ではないところがあるので、本気にしてのんびりやっていると、後から自分が困る。

でも「結構大きいな」と感じた揺れはさらにひどくなり、いつまでも終わらない。
コンクリート製の建物は、揺れで揺れを逃がすような構造になっていることが多いから、実際より揺れを大きく感じることがある。
わたしが住むマンションもそうで、「すごく揺れた!」と思っても、震度1とか2とか。「え? あんなに揺れたのに?」と思う。
実家にいるときに地震に会うと、震度を聞いて「え、あれで震度4?」と驚く。
この第二の職場も長いので、地震にも何度か会っている。外にいるより揺れを大きく感じることは分かっている。
でもこれまでに体験したことのない揺れだ。

仕事を続けていたわたしもさすがに怖くなった。

それでも地震は収まった。
「今の、大きかった!」「大きかったね!」と騒然とした会話には加わらなかった。
自分が参加しなくても、聞いていれば情報は入ってくる。

とにかくあんなに揺れては、家はものすごく揺れたろう。
夫は自宅で仕事をする日が多いので、携帯に連絡してみた。
棚が倒れたりしたが無事だというメールが返ってきた。

隣の席のアルバイト板橋さんは、会社の電話を使ってご主人の実家にかけていた。
都内だったか神奈川だったか、その辺だ。
「あ、もしもし、お義母さん? ××です。地震があったけど、大丈夫だった?」

葛飾さんも会社の電話を使って、お母さんにかけていた。
心配してというより、自分の不安を訴えるためだったようだ。
若くて、一人暮らしをしていたけれど、お母さんと仲良しでよく一緒に出かけていた。
「帰りたい」「怖い」と何度も言っていた。

電話はどんどん不通になっていった。
ソフトバンクが。NTTドコモが。わたしはauだったが、比較的つながっていた。
夫の電話はウィルコムだったため、ほとんど不通にならなかった。

あのあと、よく語られたものだ。「地震のときにつながる電話がいい」と。
それなら東日本大震災で一番つながったのはウィルコムである。

電話は、緊急時は非常用の回線確保のため、一般の通話は不通になることが多い。
インターネットはつながっているから、ツイッターを家族でやっている人たちは連絡をとりあうことが容易だと話題になった。

話題にはなったが、わたしの周囲の人たちは、結局そのままになっている。
次に何かあっても、やっぱり連絡はとれない。

最初のうちはほとんどの人が「大きな地震だった」→「でも終わった」という気持ちだったけれど、余震が何度もあった。
余震だというのにかなり揺れる。

やがて会議室のテレビでお台場の火災や、九段会館の事故などが報じられた。
――これは、わたしたち下の者まで見られたわけではなく、見た人の話が伝わってくるだけ。

だんだんに、これは異常な事態だということが、浸透していった。
終業時間まで会社でじっとしているのがつらく感じられてきた。

帰れるものなら葛飾さんはすぐに早退して帰ったかもしれない。
たび重なる余震に、恐怖は加速していったから。

でも地震と共にどの路線も電車が止まって、なかなか運転を再開しなかった。

あの日の東京:紐解かれる記憶

夕方早く、帰宅の電車に乗っていた。
今日の仕事は早く終わる仕事だったので、あと4つで自宅の最寄り駅というところ。時刻はまもなく17時だった。

向かいの席に座っていた人の携帯が変な音で鳴った。
まもなくどこかの席でも変な音が鳴り始め、隣の人も鳴り始めた。
今やあちらこちらで音がしていた。

東日本大震災の後を思い出した。
余震があるたび、強烈なビープ音が電車中に広がった。

そして電車が止まった。

「緊急地震速報が入りましたので、電車の運転を停止いたします」

車内では誰かが音を出して聞いていた。
ラジオではないだろうから、携帯で緊張速報が聞けるのだろう。
地震速報が出たことと、関東、中部、近畿に出されたこと、緊急の際の注意事項が述べられていた。

電車はしばらく線路に止まっていたが、やがて発車した。
「詳しい情報が入りましたら、このアナウンスでお知らせいたします」と言っていたが、特に説明はなく「安全の確認がとれましたので、発車いたします」とのことだった。

「揺れた?」「揺れた?」とささやきが聞こえてきて、揺れなかったならこれから揺れるのかとドキドキしていた人たちも、何も起こらないのでいつ発車するのか気をもみ始めたところだった。

夏の夕方、西日が強くて、電車の中は日差しが痛かった。
あの寒かったときとは季節が違うけれど、電車内に警報音が振動し始めて、誰も無言ながら緊急感が電車内にみなぎったあの3月を思い出した。

たぶん、2年前の3月に東京に住んでいた、あるいは働いていた人の多くが、同じ思いをしたのではないかと思う。
震災後、しばらくは余震のたびに携帯が大きな音を立てた。
朝の通勤電車の中で、見知らぬ乗客同士の携帯がそこここで鳴っていると、「異常な事態だ」という気がした。
――同じ関東でも、わたしの実家近くは田舎で、電車通勤の人など少ない。だからわたしの家族はそういう思いをしていない。
あれは、通勤電車だけの記憶なのだ。

朝の通勤電車はほとんどが見知らぬ同士。
一緒に待ち合わせて行く人などあまりいないから、異様なビープ音で車内が騒然としても、誰も口を開かない。
でもなんとなく、みんなが同じ緊張感と、同じ不安感を共有している。

不安はほとんど語られなかった。

テレビで繰り返し伝えられる東北の惨状に、「自分たちは不安を言ってはいけない」「語ってはいけない」という暗黙の了解ができていた。
だけど、決して通常の状態ではなかった。わたしたちもわたしたちなりに、異様な体験をした。

その後も「語ってはいけない」暗黙ルールは残っていて、大きな悲劇や惨劇に見舞われた地域以外の人は、あまりそのときのことを語らない。
語る資格がないと思っている。

わたしもやはり、語る資格はない。
それでも自分の見たことをまとめておきたいとは思っていた。
「こんなに大変だった」ということではなく、ただ覚書として。記憶が薄れてしまう前に、ただの記録として。

今でもときどき、会話に出てくることがある。
「あのとき、どこにいたんですか?」

「あのときはねぇ、会議で品川まで出てたんですよ」
「私はここにいたんですよ。あの日は××さんの異動の送別会の予定だった日でね」

その後に続く物語。
「品川から帰れたんですか?」「いや、とても無理でしたね。もう駅なんか、すごい人でね・・・・・・」
「送別会、やったんですか」「それが、開催されたんですよ。あんな大変なことだとは知らなくてね・・・・・・」

誰もが自分なりのあの日のストーリーを持っている。
ただ、それは、何を言っても許される、親しい間柄でだけ語られる。
あまりにも大きな出来事になってしまって、小さな物語などどうでもよくなっているし、たとえば知らずに送別会なんてしていた人たちは、批判されかねないからだ。

でも仕方がない。
わたしも、家に帰り着いてテレビを見るまで、あんな恐ろしい震災だとは知らなかった。
かつて神戸の震災を経験している知人のお嬢さんが、今は関東にいるので、「怖くなかったかしら」と心配していたくらいだ。
まさかあのような状況だとは思わず、のんきな心配をしていたものだ。
――でも仕方がない。誰も想像もできなかった。伝えられたものを見るまでは。

ではわたしのストーリーを始めよう。
でも感動も悲嘆もない。これはただの記録――小さな小さな体験記だ。

まえがき

以前から、東日本大震災のときの情景をまとめたいと思っていました。
被災地ではない場所での様子を忘れないうちに書き留めておきたい、と思っていました。

なぜそんなことをしたいのかもよく分からないのですが――

明日から次の章に入ろうと思っていましたが、次の章はきっと長くなるでしょう。
もしどこかに記録を入れたいと思うなら、今しかなさそうです。

というわけで、少し寄り道します。
終わったら次の章に入ります。

毎日更新していく予定でおります。どうぞよろしくお願いいたします。

これまでもご愛顧くださった方々に感謝いたします。
これから初めて訪れる方々にも、長くリピートしていただけたら、と願います。

みなさまのご訪問、お待ち申しております。
どうかどうか、楽しんでいただけますように。

あ、それから、どうしても語っておかねばならない派遣業界のことも、ここに挿入しました。
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