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Yさん 04:再び雨の日

この日も途中から雨になった。

またYさんをバス停まで送っていく。
Yさんには以前案内してあるけれど、雨の日ルートは分かりにくいのだ。

バスが来て、またYさんがバスに搭乗するための作業が始まる。
バスのエンジンを止め、運転手さんが運転席を離れ、車椅子スペースの座席を畳み込み、畳んだ座席をしっかり固定。
ステップをウイーンと出し、Yさんバスへ、運転手さんはステップ格納、Yさんはチェーンなどで車椅子ごとがっちり固定、固定が完全か力を入れてみて確認、また確認。よし。
運転手さん前に戻って、エンジンをかけ、発車の合図。

この日の運転手さんは感じの良い態度だった。
前回の人は特別意地悪な人だったのかな、と比べてしまうくらい、愛想よく仕事をしていた。
今回の運転手さんは、ごく普通の態度で、たとえば「高齢者の方が乗ろうとして苦労しているから、ちょっと手を貸しにやってきた」とでもいった感じ。ナチュラルだった。

感じよくエンジンを止め、感じよくステップを出し、感じよく乗せてくれたけれど――でも、なかなか固定ストラップをセットできない。
床にかがみこんであれこれしてくれてる。時間としては、前回よりもだいぶかかっている。

その間ずっと出発を待つばかりのほかの乗客。
なんか、気まずい。

障害がありながらこうして外に出ていくというのは、目に見える苦労だけでなく、目に見えない苦労もあるということを、またしても改めて感じた。

たとえば運転手さんが、待っている乗客たちに「すみませんねぇ」と謝るわけにもいかない。それは搭乗に時間がかかる人が乗ってきたせいで申し訳ない、と言っているようにも聞こえて失礼である。
だからといって、「私の手先が不器用で、時間がかかっちゃって申し訳ない」なんてことを言うのも、なんだか変だ。それはそれで、やはりYさんだっていたたまれない。
まだ若いYさんが、知らない人たちに「すみませんねぇ」と声をかけるのも難しい。それに、そこでYさんに負担がかかるのは筋違いである。

乗客がフレンドリーに「大変ねぇ」などと声をかけたら? 場が和んで、いい雰囲気になる?

・・・・・・Yさんとの出会いから年単位で時が経ったとき、脳性麻痺の人のSNS記事を読んだ。
その人は自分で体を動かすことが難しいレベルで、生活のほぼすべての場面で介助が要る。
それでもアクティブに生活を楽しもうとしている人で、介助者の人に外に連れていってもらうことも多いらしい。日常の買い物など必要以外でも、花火を見に行くとか、散歩に行くとか、機会を作っているようだった。
その人が語っていた。親切そうな女性が温かい気持ちから、介助者の人に「あら~、こんな時間まで、この人のために介助で来てるの? 大変ねぇ~」と頭越しに話しかけていて、傷ついた、と。まるでその人が小さな赤ちゃんで、何も分からないかのように、介助者だけに話しかけていた。その人自身のことを大声で。

親切のつもりで話しかけても、理解が足りなければなおさら傷つけてしまう。

それほど極端な例でなくても、そういうことはいくらでもあるし、人によって感じ方は違うから難しい。
健常者同士だって同じ問題はいくらでも起こっている。
電車の中で赤ちゃんを抱いた若いママに「かわいいわねぇ~、いくつ?」と聞く年配女性。嬉しそうににっこりして答えている人もいれば、鬱陶しそうに言葉少なに降車駅を待ち望む人もいる。嬉しそうに答えていた人も、相手が「あら~、ここ虫に刺されちゃったの? 可哀想にねぇ~、虫刺されにはこうすればいいのよ、こうしたら刺されにくいわよ、ああいうところに行っちゃだめよ・・・・・・」となってきたら、有難いと思う人とうるさいと思う人がいるだろう。
天気のいい週末、人で賑わう山にハイキングに行ったら、畑で働いている地元の人がいて、あいさつした。「こんにちは! 山登りですか、どこまで?」と答えてくれる人もいれば、仕事の邪魔をされてうんざりする人もいる。あいさつしたハイカーは、「あいさつしたのに、愛想が悪かった」とブログに書いていたりする。相手にもよるだろうし、その日すでに何人もが通り過ぎ、そのたびにあいさつされて仕事が進まなかったとか、状況にもよるだろう。

――とにかくYさんの話に戻すと、「ほかの人も何か言ってあげればよかったのにね」と安易に考えることはできない。

Yさんがどういうことを好む人か、初対面では分からない。和ませるつもりが、逆になおさら恐縮させてしまうかも。
Yさんが日頃どういうことで苦労しているか、初対面ではなかなか想像がつかない。慰めるつもりの言葉が、相手を傷つけてしまうということだってある。

Yさんに出会った当時、ちょうど友人が義肢装具を作る仕事につきたいと勉強していて、障害についても障害者についても興味を持つようになっていた。
(その友人は結局、1年くらい勉強したけれど義肢装具の世界から離れて行った。稀有な時期だったのだ。)
その友人が、障害のある人のための仕事をしているので、わたしにもいろいろ聞いてきていた。
そんなことがあって、わたしはいろいろなことに気づくようになった。いろいろなことを考えるようになった。

何度も書いてきて、また繰り返しになってしまうけれど、わたしのスタンスは「パソコンを教える人」。
福祉や障害については、知識も経験もない。だから誰とでも一般人として接し、自分に求められること、つまりパソコン知識を教えることをする。
裏返せば、半端な知識や経験で余計な口出しをするのは、求められていない。むしろ、自分の分をわきまえ、そこに留まることこそ求められている。

だから、前は意識的に考えないようにしていたという一面もある。

だけどこの時期、友人がそれこそ素人の気安さと初心者の情熱を持って、障害についていろいろ言っていたので、わたしも少し枠をはみだしてしまっていた。

さらに、自分自身の仕事も変わってきていた。

職場への障害者の受け入れが進み、普通の企業の普通の部署に、普通に障害のある人が入社することも増えて来ていた。
それはとてもよいこと――だけど、別に何を勉強したわけでもない普通の人が、それこそスクールに入ったばかりのわたしと同じ右も左も分からない人が、迎え入れる側になる。

そういった現場では、「?」が増えていた。
どうしてこんなことをするのだろう? どうして言った指示がきちんと伝わらないのだろう? どうして「なんかうまくいかない」という状況になるのだろう?

スキルアップ研修に社員や従業員を送り出す会社の中には、「なんかうまくいかない状況を打開したい」という意図のところが増えてきた。単純に「この人、Excelに関してうちのレベルに達してないなぁ、研修に行かせよう」という考えではなく――。

PCプラクティスではそういうことを必要とされていないけれど、スキルアップ研修では「もしかしてジョブトレーナー的な役割が求められている?」と思うことが増えていた。
Yさんが来たのは、わたしにとっての転換の時期だったということかもしれない・・・・・・



●8年目:いろんな出会い
Chapter 4 どこかの誰かのストーリー



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