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「わたしにとってのこの仕事」

Part 8「いろいろな出会い」のChapter 4「どこかの誰かのストーリー」で語った聴覚障害のAさん。
Aさん、Bさん、Cさんが来ていた忘れられない文書作成術のスキルアップ研修中に、Aさんに聞かれた。

「どうしてこの仕事をしているか。障害者に教えていて一番良かったことは何か。障害者に教える仕事の意味は?」

二重に難しい質問だ。
ひとつには、当然「答えを見つけるのが難しい」。
もうひとつには――もうひとつには、「Aさんは受講者さん、いわばお客さまだから難しい」。思っていることをそのまま言えない場合もある。

「感動する」「素晴らしい仕事」とかそういうことを言いたくても、現実はこんなもんだから、「心底からやりがいだけに打ち込もう」ったってできないわけよ。

わたしは「障害のある方のお役に立つという素晴らしい仕事だから、ぜひここで働きたいんです」と希望したか?
現実は、スクールの存在も知らなくて、職業訓練時代の恩師と思っている水上先生の紹介だったから面接に来た。
当時働いていた会計事務所で、わたしはさざなみひとつない沼の底にいるような気分を味わっていて、広々した見知らぬ環境がとても良く見えて、「ここで働こう」と短絡的に決めた。正直、会計事務所を辞めざるを得なくなって、先行きとても不安だった。

「障害者に教えていて一番良かったこと」? そもそもわたしは何のために仕事をしているのだろうか?
現実は、収入のためである。つまり、生活のためである。
素晴らしい仕事だから、時給が全国の最低賃金以下でも続けるわ!と言えるだろうか? いやちょっと、それでは生活できないなぁ。

・・・・・・なんて、まさかそんなこと、言えないなぁ。

それでもその枠内でこの仕事に打ち込んでいる人はいるだろう。
だが、これまでわたしが見てきた「収入など関係ない、やりがいだけが大事」という人は、たいてい生活に困っていなかった。
スクールで一緒にPCプラクティスをしていて、一時期はスキルアップ研修も分け合った久慈先生は、そんな感じだった。あまりたくさん働きたくないとも言っていた。自分の趣味などに使う時間の妨げになるのは困る、と。
出版社見聞録で同じチームにいた荒川さんも「仕事が楽しくてやりがいがあれば、収入は関係ない」と言っていたが、ご主人の収入だけで楽に暮らしていける人だった。(怪しくなったときは、ご主人の実家に同居したりして、生活に困りはしなかった。)

収入などそっちのけで、自分の人生や生活もそっちのけで、奉仕することだけを目的にできる人なんて、そう多くはない。
海外ボランティアみたいに年数が決まっているならまだしも、安い賃金でやりがいだけを生きがいにして、なんて――そういう人は、収入がなくてもある程度安定した暮らしができる人だ。・・・・・・多くの場合は。
――違うかな?

わたしにとっての「障害者に教えることの意味」って、本当のところどう感じているのだろう?

わたしはこの仕事を楽しいと思っていて、できれば続けていきたい。多少条件が変わっても続けたいが、あまりに不便な条件になってしまうと無理だから、そんなことになってほしくないなぁと思う。
でもそれは「障害者に教えている」からだろうか? 自分の「楽しい」という思いは、教えることそのものを楽しむ気持ちが多分にある。対象が健常者であっても、仕事は楽しいのである。
障害に対応しなくてはならない分、知識や工夫を問われる場面がある。それはやりがいがある。
でも同じように、誰もがパソコンを使えるような時代になって、役に立つ講習をするためには工夫がいる。それもまた、やりがいを感じる部分なのだ。健常者しかいない企業研修や、一般向け講習会を請け負ったときも、それはやりがいなのだ。

わたしは少し考えたけれど、Aさんの質問には正直に答えることにした。
わたしにとってのこの仕事は、「仕事」である。

「自分にできる限りを尽くすこと」。

たとえば、マウスが使いにくい肢体障害の人がいたら、ショートカットキーを提案すること。
提案できるだけのショートカットキーの知識を身に着けておくこと。

視覚障害の人がグラフを作るとき、Excel2003で画面拡大していたら、「それはやらないほうがいいですよ」と伝えられること。
でも2010や2013なら大丈夫だから、「それはしないほうがいい」と余計なことを言うのはやめること。
そういう必要な知識を身に着けておくこと。

これらはアプリケーションに関する部分だ。

あれこれ詳しく教えても覚えられないかもしれない障害だったら、ひとつのやり方にしぼること。
知的障害ならボタンに統一するとか。それまでに慣れたやり方があるなら、それでいいと伝えるとか。
高次脳機能障害ならその人が覚えられるよう、一人一人に合わせて考えていくとか。

論理を教えるとき、テキストや参考書は長々と文章が続いてしまって、聴覚障害の人には分かりにくくなる。
その箇所まで進んだら、ちょっと横から、体験的に理解できるよう補助すること。

これらは教えるテクニックに関する部分だ。

障害についての知識もあったほうがいいけれど、たとえ知らなくても「あ、こんなふうに困っているんだな」と把握することができれば、助け舟を出せる。
3日しか関わらないスキルアップ研修なら、なるべく早いうちにその人の利点や問題点を把握して、できるだけ大きな効果をあげられるよう工夫する。

これらは人を見る力、観察力、把握力である。
わたしはこういうことに、意外と長けている(と自分では思っている)。

同時に大切なのは、自分が間違っていた、見誤っていたと分かったら、即座にそれを受け入れることだ。
「この人はこうなんだな」と一度判断を下したら、その後その見方に反する場面に出会っても、一度貼ったレッテルを変えられないことは多い。そういうとき柔軟に受け入れられること。「あ、違っていたな」と気づけること。
これも大切なことだと思う。特に「自分は観察して把握するのが得意だな」と自負している場合は、なおさら。

そうやって考えると、わたしは「障害のある方のお役に立つ」という奉仕の精神よりも、自分へのチャレンジとしてやりがいを感じているらしい。
わたしとしては、「仕事として」この仕事をするのもありだと思うし、その観点からプロでありたいと思う。

――まあ、プロとして、まだまだなんだけど。

もちろん、障害があるということについて、考えさせられる場面には出会う。
そういうとき、何も感じないわけにはいかない。
わたしなりに意義やあるべき世界を思う。

でもそれは、「プロとしては」、この場で受講者さんと語り合うべき事柄ではないと判断して、言わないことにした・・・・・・



●9年目:ハートの中心
Chapter 1 ハートの中心



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