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本当の厳しさ

わたしは、真に優しさを貫こうとするなら、強さが必要であると思っている。
そういう意味で、わたしは「わたしは優しい」とは言いがたい。受講者さんが「あなたは優しい」と言ってくれても、本当は人当たりがいいだけだとか、実はことなかれ主義なだけだとか、心の中で自嘲気味に考えてしまう。

でも人はやはり、当たりが柔らかいほうが好きである。

本当に相手のためを思っていたら、相手に嫌われても指摘したほうがいい――そんな場合もある。
自分が悪者になってでも、この人のためになるように――そんなふうに考える場合もある。

その思いが通じて、最初は「きつい、嫌な人だ」と思われて反発されても、やがて感謝してもらえることもある。

厳しさというものを考えるとき、ではいったい何が必要だろうかというと、個人的にはこう思う。

本当の厳しさというのは、愛がなければならない。

愛をもってなされる場合のみ、それは「厳しい」と言える。
と翻訳文的に言い換えてもいい。

愛のないきつい言動は、厳しさというより、ただの「性格のきつい人」「言い方のきつい人」「意地悪」「当たり散らし」「いじめ」に感じられる。
「厳しい」という言葉には、単なる「きつい」だけではなく、心が伴うニュアンスが感じられるからだ。同じことを伝えるのでも、優しく教え諭すのか、厳しく叩き込むのか、いずれにしてもそこには「相手への思い」がある。これを知っておいたほうがいい、これを学んで成長してほしい、という。

しかしこの境目は難しい。

優しさが、ともするとなあなあな関係になってしまうように、厳しさも、一歩間違えるとただの意地悪、または態度のきつい人だ。
これが教える側と教わる側、つまり先生と生徒的な関係だと、逆らうことができずストレスになったり、不公平感につながることもある。

あるとき、カフェテリアであるコースの実習生さんが同じテーブルに座った。
たまたまではなく、その人は「あのテーブルに行こう」と意思を持って座ったのだが、わたしと話したかったからではない。同じテーブルにいたほかのスタッフさんに話したかったようだ。
その人は実習をコーチする人ではなく、就職をカウンセリングしたりコーチしたりする人でもなかった。でもなぜか幾人もの実習生さんがその人に話をしたり、相談をしたりするという人格者だった。

では、実習生さんをGさん、人格者のスタッフさんをSさんとしよう。
そのテーブルには、Sさんと**さんという全然関係のない部署の人がいて、そしてたまたまわたしがいた。そこにGさんがやってきて座った。

各自、自分の定食などを食べながら、なんとなく会話になる。

Gさんは、熱心なN先生が所属するコースの人だ。
わたしはPCプラクティスでほぼ全員と会うので、Gさんのことは知っていた。
またN先生も知っていた。

Gさんは人格者のSさんに話しかける。
「もう昨日もN先生にいろいろ言われて、つらいですよ」

答えるSさんの話し方は、イメージとしては「朴訥な」とか「穏やかな」とか、そんな感じ。
「つらいって言っても、殴られたりとかするわけじゃないんでしょう?」

「そりゃ殴られたりはしないですけど」
「じゃ、いいじゃない」
「でも僕にだけ言うみたいだし、なんかつらいですよ。他の人には言わないのに、僕にだけ言うんですよ」
「そんなことないだろう」
「でもそうなんですよ。僕だけ言われるんです。他の人には言わないんですよ。不公平なんです」

わたしも「それは、それだけ期待されているということですよ」とか、「人によっては厳しく言われることがとても負担になる障害もあるから、ケースバイケースなのかもしれませんよ」とちょっとだけ横から口を出してみた。

人格者のSさんは、話しぶりや優しそうな笑顔でとても穏やかな人に見えるが、けっこうストレートな人である。
「だけどね、私なんかの若い頃はね、そんなの厳しいうちに入らなかったよ。手だって足だって出るからね」
「そのくらいできついなんて言ってたら、だめだよ」
――でもSさんが言っても、強くは感じないのである。なんとなく素直に聞けるというか。

同じことを、N先生がいつもの熱心さで指摘したら、Gさんなどまた「厳しすぎてきついです」と言うだろう。

Gさんの訴えは、実のところどうなのだろうか。
Gさんが言うように、N先生はきつい言い方をしすぎて、Gさんのためになる以上にストレスになっている?
本当にGさんにだけ、不当にきつく注意され、押さえつけられているのだろうか?

N先生は言うだろう。「私はGさんのために良かれと思って厳しく言ってるんです」
Gさんは納得しないだろう。

この件について、周囲はどう見ているか?

小耳にはさんだところでは、Gさんのような訴えをしている実習生さんは他にもいるらしい。
近くで見ているスタッフさんの意見はというと――これも小耳にはさんだだけの話だが、Gさんに賛成という人もいるし、N先生に賛成という人もいる。

人間は、誰しも好き嫌いがあるはずだ。
どんな人のことも嫌わず、好意を持つなんて、たぶん誰にもできない。

できるとしたら神に仕える修道女とか、そういう特殊な人たちだ、と思ったことがある。しかし以前読んだある作家の本の中で、「私たちも誰でも好きになることはできません。嫌いな人もいます。そういうときは表面だけでも好きなようにします。そうするとやがて心がついてきます」と語る本物の修道女さんの言葉が紹介されていた。
そうだったのか! 強い信仰があってもそうなのか! と思ったものだ。

「私はこの人のためを思って」「良かれと思って」「愛をもって」厳しくコーチしているのです、と言ったとしても、違う可能性もある。
ご本人が心からそう思っていたとしても、それは一生懸命自分に言い聞かせていたのであって、実は多少のイライラ、嫌う気持ちがあるかもしれない。

ないかもしれない。
けど、ちょっぴりはあるかもしれない。
どんなにそういう気持ちを排除して、公平に接しようと思っても、完全には除ききれていないかもしれない。

「かも」だが、確実なところは、人間の気持ちの問題なので、完全に正確には量りようがない。
他人だけでなく、本人にも、100%は量れない。

厳しさは、優しさよりちょっと不利だ。
優しさが間違って「甘さ」「なあなあ」になってしまっても、そのほうが相手も楽だからあまり非難されない。
厳しさの場合は、少しでもブレると言われるし、ブレなくても言われるかもしれない。

でもまあ、それはもうどうしようもないことなので、せめて心に刻んでおこう。自分が誰かに厳しくするときのために。

本当の厳しさというのは、愛がなければならない、ということを・・・・・・
本当の厳しさ

わたしは、真に優しさを貫こうとするなら、強さが必要であると思っている。
そういう意味で、わたしは「わたしは優しい」とは言いがたい。受講者さんが「あなたは優しい」と言ってくれても、本当は人当たりがいいだけだとか、実はことなかれ主義なだけだとか、心の中で自嘲気味に考えてしまう。

でも人はやはり、当たりが柔らかいほうが好きである。

本当に相手のためを思っていたら、相手に嫌われても指摘したほうがいい――そんな場合もある。
自分が悪者になってでも、この人のためになるように――そんなふうに考える場合もある。

その思いが通じて、最初は「きつい、嫌な人だ」と思われて反発されても、やがて感謝してもらえることもある。

厳しさというものを考えるとき、ではいったい何が必要だろうかというと、個人的にはこう思う。

本当の厳しさというのは、愛がなければならない。

愛をもってなされる場合のみ、それは「厳しい」と言える。
と翻訳文的に言い換えてもいい。

愛のないきつい言動は、厳しさというより、ただの「性格のきつい人」「言い方のきつい人」「意地悪」「当たり散らし」「いじめ」に感じられる。
「厳しい」という言葉には、単なる「きつい」だけではなく、心が伴うニュアンスが感じられるからだ。同じことを伝えるのでも、優しく教え諭すのか、厳しく叩き込むのか、いずれにしてもそこには「相手への思い」がある。これを知っておいたほうがいい、これを学んで成長してほしい、という。

しかしこの境目は難しい。

優しさが、ともするとなあなあな関係になってしまうように、厳しさも、一歩間違えるとただの意地悪、または態度のきつい人だ。
これが教える側と教わる側、つまり先生と生徒的な関係だと、逆らうことができずストレスになったり、不公平感につながることもある。

あるとき、カフェテリアであるコースの実習生さんが同じテーブルに座った。
たまたまではなく、その人は「あのテーブルに行こう」と意思を持って座ったのだが、わたしと話したかったからではない。同じテーブルにいたほかのスタッフさんに話したかったようだ。
その人は実習をコーチする人ではなく、就職をカウンセリングしたりコーチしたりする人でもなかった。でもなぜか幾人もの実習生さんがその人に話をしたり、相談をしたりするという人格者だった。

では、実習生さんをGさん、人格者のスタッフさんをSさんとしよう。
そのテーブルには、Sさんと**さんという全然関係のない部署の人がいて、そしてたまたまわたしがいた。そこにGさんがやってきて座った。

各自、自分の定食などを食べながら、なんとなく会話になる。

Gさんは、熱心なN先生が所属するコースの人だ。
わたしはPCプラクティスでほぼ全員と会うので、Gさんのことは知っていた。
またN先生も知っていた。

Gさんは人格者のSさんに話しかける。
「もう昨日もN先生にいろいろ言われて、つらいですよ」

答えるSさんの話し方は、イメージとしては「朴訥な」とか「穏やかな」とか、そんな感じ。
「つらいって言っても、殴られたりとかするわけじゃないんでしょう?」

「そりゃ殴られたりはしないですけど」
「じゃ、いいじゃない」
「でも僕にだけ言うみたいだし、なんかつらいですよ。他の人には言わないのに、僕にだけ言うんですよ」
「そんなことないだろう」
「でもそうなんですよ。僕だけ言われるんです。他の人には言わないんですよ。不公平なんです」

わたしも「それは、それだけ期待されているということですよ」とか、「人によっては厳しく言われることがとても負担になる障害もあるから、ケースバイケースなのかもしれませんよ」とちょっとだけ横から口を出してみた。

人格者のSさんは、話しぶりや優しそうな笑顔でとても穏やかな人に見えるが、けっこうストレートな人である。
「だけどね、私なんかの若い頃はね、そんなの厳しいうちに入らなかったよ。手だって足だって出るからね」
「そのくらいできついなんて言ってたら、だめだよ」
――でもSさんが言っても、強くは感じないのである。なんとなく素直に聞けるというか。

同じことを、N先生がいつもの熱心さで指摘したら、Gさんなどまた「厳しすぎてきついです」と言うだろう。

Gさんの訴えは、実のところどうなのだろうか。
Gさんが言うように、N先生はきつい言い方をしすぎて、Gさんのためになる以上にストレスになっている?
本当にGさんにだけ、不当にきつく注意され、押さえつけられているのだろうか?

N先生は言うだろう。「私はGさんのために良かれと思って厳しく言ってるんです」
Gさんは納得しないだろう。

この件について、周囲はどう見ているか?

小耳にはさんだところでは、Gさんのような訴えをしている実習生さんは他にもいるらしい。
近くで見ているスタッフさんの意見はというと――これも小耳にはさんだだけの話だが、Gさんに賛成という人もいるし、N先生に賛成という人もいる。

人間は、誰しも好き嫌いがあるはずだ。
どんな人のことも嫌わず、好意を持つなんて、たぶん誰にもできない。

できるとしたら神に仕える修道女とか、そういう特殊な人たちだ、と思ったことがある。しかし以前読んだある作家の本の中で、「私たちも誰でも好きになることはできません。嫌いな人もいます。そういうときは表面だけでも好きなようにします。そうするとやがて心がついてきます」と語る本物の修道女さんの言葉が紹介されていた。
そうだったのか! 強い信仰があってもそうなのか! と思ったものだ。

「私はこの人のためを思って」「良かれと思って」「愛をもって」厳しくコーチしているのです、と言ったとしても、違う可能性もある。
ご本人が心からそう思っていたとしても、それは一生懸命自分に言い聞かせていたのであって、実は多少のイライラ、嫌う気持ちがあるかもしれない。

ないかもしれない。
けど、ちょっぴりはあるかもしれない。
どんなにそういう気持ちを排除して、公平に接しようと思っても、完全には除ききれていないかもしれない。

「かも」だが、確実なところは、人間の気持ちの問題なので、完全に正確には量りようがない。
他人だけでなく、本人にも、100%は量れない。

厳しさは、優しさよりちょっと不利だ。
優しさが間違って「甘さ」「なあなあ」になってしまっても、そのほうが相手も楽だからあまり非難されない。
厳しさの場合は、少しでもブレると言われるし、ブレなくても言われるかもしれない。

でもまあ、それはもうどうしようもないことなので、せめて心に刻んでおこう。自分が誰かに厳しくするときのために。

本当の厳しさというのは、愛がなければならない、ということを・・・・・・



●9年目:ハートの中心
Chapter 1 ハートの中心



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