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対等であること 01:友達として

わたしは日記風のブログもしていたりするが、あまりそこでは仕事について語らない。
どうにも誰かに言いたい何かがあったら、ときどきぶちまけてみたりするけれど、基本的にはあまり語らない。

コメントというのはほとんどなく、1人2人の限られたブロ友さんがつけてくれる程度である。定期的に見てくれている人が他にいるのかどうかも分からない。
――飲食店に行ったら載せるので、このブログよりは断然検索されやすく、プレビュー数もこの地味なブログより多いだろうけれど。

限られたブロ友さんとは、お互いの記事を読みあう仲だし、ときどき季節の贈り物をしあったりもする仲だ。つまりほとんど顔見知り。
そういう相手が頻繁にコメントしてくれると、どうしても書くときにその人の顔が浮かぶ。
これが不特定多数の人がたくさんコメントしてくれるようなブログだと、タレントがインタビューに答えるような気持ちだったり、エッセイストが作家として書くような気持ちで書けるのだろうけれど、なにせ多い日で2人か3人なので、友達と食事の席で話しているようなものだ。
こんなことを言うと相手は困るだろうな、とか、こういう反応が返ってくるかな、というのが浮かんでくるのである。

定期的に見てくれている2人のブロ友さんは、いい人たちだ。
ちょっとした仕事上の発見を語ったりすると、「視覚に障害のある方は大変ですよね。こういうことはもっと日本全体で考えていかなければなりませんよね」「聴覚障害のある方の苦労について、きっと私たちが知らないことがたくさんあるんでしょうね」と、丁寧に返してくれる。

でもそれでも、説明が難しいなと思うことも、実はある。

それは第二の職場の隣の席の人も同じなのだが、ブロ友さんたちに「障害者は天使である」という前提があるからだ。
わたしが「へぇ~、アイディアだなぁ~」と感心しただけのことも、感想としてはちょっとばかり感動系になる。
別に何もかもが感動話ではないのだが、「障害のある人が」という時点でモードが切り替わるとでもいうか――

だから感動系でOKな話でなければ書けないような気持ちになる。で、書かない。

実は今、この場でも迷うところだが、やはりこれだけ長く書いてきたなら逃げてはいけないと思うので、勇気を出してみたい。

障害があることで相手が常に感動の対象になるとしたら、それは厳密には「対等」ではない。

健常者同士の友達でも、「この人はすごいなぁ、かなわないなぁ」と思うことはある。でもさっきから話している「感動」は、そういう意味の感動ではないように感じられる。
乱暴な言い方をすれば、障害があるというだけでもう何をしても感動、とでもいうか。

友達だったら、もしかしたら厳しいことも言うかもしれない。(まあ、大人の世界では友達とはいえ、あまりないけれど)。
でもその友達が障害があったとして、「こんなことを言ったんです」と書けるだろうか? ブロ友さんたちは、障害のある人にそんなことを言ったわたしをどう思うだろうか。友達だものね、きついことも言うわよね、と受け止めてくれるだろうか。

そう思うと書けなくなる。

理想は、もしその人が友達なら、障害者であるということを意識せずに友達でいられること。
でも健常者の友達でも、たとえばチーズが食べられないと分かっている人を、ワインとチーズだけ出すバーに誘いはしない。同じ意味で、車椅子であると分かっている人を、階段でしか行けない店に、上る手立ても考えずに誘いはしない。
そういうふうに、相手を理解して気遣うことは必要だ。その気遣いは、健常者の友達と一緒のときより、少したくさん必要かもしれない。そうでもないかもしれない。それは相手による。健常者だって、あれこれ性格とか特徴はあるし、障害者とひと口に言ってもさまざまだ。

仕事で関わっているときのわたしは、天使フィルターをかけてはいられない。状況をかけねなく判断する必要があるからだ。
逆に、合わない相手だったり、相手がちょっと意地悪だったり性格が悪い人だったりしても、それで態度を変えることもしない。しちゃうかもしれないけれど、少なくとも変えないように努力はする。なぜなら仕事だからだ。
それは、サービス業をしていた頃と同じだ。

天使フィルターで見ているからといって、差別しているつもりはないだろう。
見下しているわけでもないだろう。

しかしそれはやはり、「自分とは違う存在」として見ているということだ。
仕方がないことでもある。

わたしも最初は気負っていた。「障害のある方たちの役に立ちたい」とか。
そう思いながら、義足だった父のことや、スクールに紹介してくれた電動車椅子の水上先生のことは、「障害者」とはあまり思っていなかった。「父」であったり、「水上先生」であったりするからだ。
つまり、身近でないからカテゴリーの中の存在になってしまうのだ。
たとえば「アメリカ人」とか「中国人」というのと同じ。アメリカ人の友達がいたら、その人だけは「アメリカ人」であるより先に「ジョン」なり「スティーブ」なりであり、「友達」なのだ。
もしアメリカ人の友達が1人2人でなく何十人といたら、気持ちの垣根はもっとなくなって、「自分はけっこう九州出身の知り合い、多いんだよね」というのと同じ感覚で、「アメリカ人の友達、けっこう多いんだよね」と思えるかもしれない。

障害があるということは、苦労の多いことだ。
それを無視しようといっているのではない。
そこは理解した上で、でも同じ人間同士として、対等でいられたらいい。

対等になるために、法律の保護や手助けが必要かもしれない。それはなければいけない。
対等であるために、社会保障で守られなくてはならないかもしれない。それはなければいけない。

相手の障害によっては、友達にはなりきれないこともあるかもしれない。
重度の知的障害で、友達として話ができる状態ではないとか。重度の精神障害で、人付き合いができる状態ではないとか。
そういった不利があることも事実で、それは当人の人格や努力とは違うところに原因がある。障害があることが、社会保障や法律ですべて解決できるわけではない。

でも理想としては、対等であるべきだと思うのだ・・・・・・



●9年目:ハートの中心
Chapter 1 ハートの中心



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