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対等であること 02:笑うこと

今回は結論は出ない。というか、出さない。
いくつもの角度から意見があるようなことは、臆病者のわたしには答えは出せない。

顔見知りの先生に、ちょっと顔を見たいなと思ってトレーニングフロアに会いに行ってみたら、何か張り紙を作っていた。
「これねぇ、卒業生なの~」
「えー、そうなんですか~」・・・・・・と覗いてみたけれど、名前だけでは分からない。

わたしはほんの2週間しか皆さんとおつきあいがないし、全員の名前は覚えていなかったりする。
以前、ダブルワークの職場の人が、「お料理研究家の**さんは、ほんっとにすごいの! これまでお教室や講習に来た人は、ぜんっぶ覚えてるのよ! 何年も前に1回受講しただけの人にも、お元気でいらした? あのときは娘さんが中学生で、これこれこんなことをおっしゃってたわよね、なんて声をかけるから、みんな感激しちゃうのよ~!」と話すのを聞いたことがある。
カリスマ講師ならそうなのかもしれないけど――わたしには無理そう。
顔を見れば、「あ!」と思う人が多いのだが、中には顔を見てもおぼろげな記憶しかなかったり、おぼろげにも覚えていなかったりする。

やっぱり、いい人で、真面目に受講していて、講師に手をかけさせなかった人ほど、覚えていなかったりする。
「んも~~~~」と思った人ほど、覚えているものだ。
または、すごく特徴のある顔立ちだったとか、ものすごく好みのタイプのハンサム(あるいは美女)だったとか。
他意はない言葉と受け取ってもらいたいが、やはり自分がそれほど出会ったことのない障害だったりすると、それもまた印象に強く残る。

「この人はねぇ、**年に卒業したんだけど、お笑いの道に進もうとしてるのよ~。それで今度のライブチラシを送ってきてくれてねぇ」

そうなんだ! 自分のやりたいことがあって、それに向かって進んで行くのは、素晴らしい。頑張ってほしい。
でも。
障害がありながらお笑いをするというのは、大変というか――難しい問題が立ちはだかるだろうなぁというのが、そのとき浮かんだ思いだった。

「もし障害のある人がステージに出てきて、いろいろなネタをしたとして、あなたは笑えますか?」
言ってしまえば、こういうことだ。

こういう問題については、それまでも何度か考えさせられることがあったのだ。

そもそも見たくないという人もいる。
ある雑誌の人特集で、重い体の障害があるが活躍しているある人を取り上げていたときのこと。「こういう障害者は見たくない。ページを開いたら写真が出ていると、見たくなくても見えてしまう。出さないでほしい」という意見があった。
「子供が何気なく本を開いて、見てしまうかもしれない。出すべきではない」という意見も。

これだけを聞くと、「そんなひどいことを言うなんて」と思う。

でも知り合いで、とてもいい人で、つらい人生を歩んでいる友人などにも深く同情して、当然障害者にも心では同情している、でも血を見るのが苦手とという人がいた。
それはもう、ちょっとした「苦手」程度の話ではなく、生理的に受け付けない。具合が悪くなるほど受け付けない。
同じような意味で、血だけでなく、義手や義足など義肢装具も見ることさえできない。受け付けないらしい。
悪気はないのだ。だが、そういう話は受け付けない。

――ということは、もしテレビなどに、義肢装具を見える形で装着した人が出てきたら、見られないということだ。

ふとチャンネルを回したらそういう人が映っていたとしたら、具合が悪くなるくらいの衝撃を受けるわけだ。
だからといって「出さないでください!」と抗議したりはしないが、とにかくそういう人もいるということだ。

その人は、発達障害については深い関心を抱いていて、わたしもいくつか聞かれたことがあった。
しかし義肢装具は、それが並んでいるのを写真などで見るのも、ダメ。

話は変わって、障害者に感動する人もいる。

以前、単発の仕事で行った会社では、少し年上の女性がわたしに普段の仕事を聞いてきて、スクールのことを話すと涙ぐむほど感動していた。
「この間テレビで、障害のある女の子の話を見たんですよ。彼女は障害も自分の個性だって言って、すごく頑張っていてね――」と。

第二の職場でわたしの隣の席にある時期座っていた人は、第二の職場で初めて知的障害者を雇おうとしたとき、力を込めて言っていた。
「彼ら、本当に頑張ってるよねぇ。すごくピュアっていうかねぇ。今トライアルで来てるけど、全員雇ってあげたいよね。断らなきゃならないなんて、人事の人たちもつらいだろうね」

でもこの人たちがライブに行って、そこに障害者が出てきて笑いのネタをしたら、笑うだろうか?

その人たちは、自分の夢をかなえたいと頑張っている。夢がお笑いで人を笑わせることなのだ。それこそ「障害も自分の個性」として笑いのネタにするし、ライブを欠席したりすることのないよう体調管理なども、健常者の芸人以上に努力している。
でも、それを、心から笑ってあげられるかな?

実際、障害者の芸人さんのプロフィールをYouTubeで見ていたところ、コメントに「障害を笑うのはどうかと思う」というものがあった。
道端で歩き方がおかしいからと人を笑ったら、それは「どうかと思う」。
でもその人の場合は、「私はおかしな歩き方が得意なんです、なんとそれが演技でなくて地なんですよ」という感じで、自らネタにしているのだ。

太った芸人さんが、自らの「でぶ」をネタにするのはよくて、障害者が自ら「障害」をネタにするのはよくない?
それは、体型は自分の努力で変えられるけど、障害は変えられないから?
それなら、「はげ」をネタにしている人は? 「ブサイク」をネタにしている人は?

「ミゼットプロレス」という低身長症の人たちの伝説的プロレスの話は、こういった問題の根っこを痛いほど感じさせると思う。
Wikipediaにも載っているので、それが一番分かりやすい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9

まとめると、「ミゼットプロレス」は「小人プロレス」とも呼ばれていたもので、低身長症の人たちのプロレスだった。
泥レスリングやオイルレスリングなどのように、本試合の前座で行われていた。格闘主体ではなく、笑い主体。
低身長症の人たちを笑いものにしていると一部の人権団体から抗議があり、テレビ放映などでは扱われなかった。

Wikipediaに紹介されている、ミゼットプロレス選手の言葉。
「どうして大きいのはいいのに小さいのは駄目なんでしょう」
「自分が唯一輝ける場所がリングなのに、人権団体がうるさいからプロレスが出来なくなった。生き甲斐も仕事も失った」
「自分は人前に出てはいけない人間なのか?唯一の認めてくれる場所を失って死ねというのか?俺たちは寿命も短いんだ。死ぬ前にもう一度リングに上がりたい」
ミゼットの選手達は「自分達は笑われているのでは無い、笑わせているんだ」という自負を持っていた。実際、「自分の技に笑って1人くらい死ぬ人がいれば本望」と発言した選手もおり記録に残っている。

昔は今よりも低身長症の人の就職も難しく、重要な仕事口であるなど、状況も違ったとは思う。
でもこの「やりたいのに道を閉ざされた」人たちの言葉は胸に痛い。

今はお笑いが人気だ。
「芸人」という言葉に卑しい響きがあった時代ははるか遠く、若い人どころかわたしの年齢だって、リアルタイムには知らない。古典文学で見るかもな、くらい。
今では「芸人」というとスターな響き、セレブな響きがある。
憧れる人が多い職業になった。

お笑いが好きだから。自分を変えたいから。かつて自分がお笑いに救われたから。
いろいろな理由でお笑いを目指したいと思う人がいる。障害がある人の中にだって、いる。

でもそれを笑えるかな? 笑える土壌が日本にあるのかな?

障害がありながら留学した若者が、「へぇ、日本には車椅子の芸人っていないんだ。こっちには多いけど」と言われて開眼し、「自分がなったっていいんだ!」と笑いを目指すことにした話も、ネットに載っていた。
でも、笑ってもらえるかどうか、分からない。

別に、障害のことだけをネタにしているわけではない。でも笑っちゃいけない空気みたいなものがある。
それは、どうあるべき問題なの?

で、ここでわたしは、結論を出さずに終わろうと思う・・・・・・



●9年目:ハートの中心
Chapter 1 ハートの中心



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■まえがきにかえて(おことわり)■


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