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対等であること 03:それは甘え?

ある人が言った。「障害者は甘えている」
その人も障害者だった。だから言える言葉だ。

自分は雇用関係の業務にも携わっていて、面接に来る障害者に会うことも多い。
その大手企業グループでは、通常の採用とは別途に障害者採用を行っているそうだ。――まあ、普通そうなのだろう。

「面接に来る障害者を見てると思いますね。甘えてるし、卑屈だし」

自分に厳しい人だった。
すべてきちんとしていて、初日の挨拶時にあらかじめ自分の障害のことを述べて、迷惑をかけることもあるかもしれないと説明。理解してもらいたい旨のお願いをする。
聞くからに厳しそうな企業だったので、日頃から甘えることを許されない環境で、甘えずに努力していらっしゃるのだろうと思った。
厳しそうな会社だというのは単なるイメージだが、企業名を聞いたら多くの人がそういうイメージを思い浮かべるのではないかと思う。そういう企業で、障害者として雇用されながらも、会社に貢献し、自分としてもやりがいや昇進などの目標を達成するため努めているのだと、勝手ながら想像する。

確かに、障害者雇用は、障害者にとって優しい一面もある。
また、そうでなくてはいけないものでもある。

毎日のように遅刻して来たとしても、いきなりガンガン怒ることはないかもしれない。
だって、相手は事情があるのかもしれないから。

脊髄損傷で、トイレに時間がかかる障害があり、ゆとりを持ったつもりで準備しても遅くなってしまうのでは?
発達障害で、夜ゲームをやるのをやめられなくて、睡眠不足が慢性的になっているのでは?

会社で働いているからには、「事情は分かるけど、でもどうにかしないとね」というふうになっていくとは思うけれど、健常者として雇われている人とはやはり許容度が違うだろう。

その人は、ある若い人に注意していた。「何か教えてもらったらお礼を言うのは当然。会社でも同じこと。相手は自分の時間を割いて説明してくれているのだから」

それは障害のせいばかりではなく、単に若かったからかもしれないが、確かにそうかもしれないと思った。
わたしにもずいぶん質問をして、そのために帰るのが30分1時間と遅れるくらいだった。「もう遅いから帰りなさい」と花咲さんに言われると「すみません」と帰って行ったけれど、もっと気遣う人なら「時間外なのにお時間をとらせてすみません」と切り上げようとするところだ。

非難されたことがないから、気遣う発想がない。
手助けしてもらうのが当たり前だったから、相手の迷惑という発想がない。

逆に、自分に障害があるということで劣等感や疎外感を常に感じることで、卑屈に見えることもあるかもしれない。

でもこれは難しい問題だ。

以前に出会った自立心の強い電動車椅子のYさん。

Yさんは友人について言っていた。
「養護学校に通ってると、大事にされすぎて何もできなくなる。そういうのは嫌だと思ったのだ」ということ。
だから養護施設には行きたくなかった、と。

Yさんは見てきた。
自分にはできるわけがないと、当たり前に思っていて、チャレンジできない同級生たち。
なんでも手厚く介助してくれて、「それはダメ」「それはいい」というのもすべて教師が決めていく。

反抗するとしてもどうやって?
もし重度の障害だったら、教室を出て、階段を降りて、家に帰ったりどこかをフラフラしたりできる?

Yさんだって、自分一人で通勤したりするようになっても、態度の悪い運転手の「なんだよ、車椅子積み込むのかよ、めんどくせーな!」と言わんばかりの様子を見ても、「すみません」「ありがとうございます」と言っていた。
助けがないとバスもタクシーも乗れないから。

Yさんは養護学校、養護施設と居続ける人たちについて、卑屈という言葉は使わなかった。
でもYさん自身の思いの中には、「卑屈になりたくない」という気持ちがあると思う。

つまり、卑屈になるなといっても、そっちのほうが大変な環境というのもあるのだ。
養護学校(現 特別支援学校)のことではない。常に障害を抱えて生活していかなければならない状況のことだ。

頑張れないほど障害が重かったら? 甘えずに生きていくのは難しいし、それだけのハンディを負っているなら、甘えたっていいではないか。それでトントンには全然ならないのだし。

車椅子で、車を運転して会社にもスキルアップ研修にも通い、日頃足にしている車にはこだわりがある。車にお金をかけるのを楽しんでいる。会社では頼りにされ、ときには自宅で飲み会を開いたりもする。
冗談好きで、この人と話をするのは楽しい。きっと友達も多いだろう。
――でも、毎朝、服を着るのは人の何倍もかかるのだ。どんなに慣れても。
トイレは何倍も時間がかかるのだ。そのためにたぶん朝は、聴覚障害の同僚よりも何十分も早く起きているのだ。トイレに行きたくなっても遅刻しなくて済むように。
外食するときも、行けない店もあるのだ。階段でしか行けない店とか、通路が狭くて車椅子が通れない店とか。
日々、刻々、何かしらの制約や苦労があるのだ。
もし、その人が健常者だったら有名大学卒の人しか採用されないような企業に、障害者枠で入社できて、多少健常者より規則がゆるかったとしても、それがなんだというのだろう?
障害者だから得したことより、障害者だから損したことのほうが圧倒的に多いのに。

「障害者は甘えている」「それに卑屈な人も多い」と言った人は、決して間違いではないし、そんなことを言ってはいけないとは思わない。
それもひとつの意見である。

実際にその人は、自分が障害者であっても甘えたくない、卑屈になりたくないと思って努力し続けているのだし、わたしが会ってきた人たちの多くはそういう人たちだった。
やはり甘えず堂々と生きていくほうがかっこいいし、どんな事情があれ他人の甘えに厳しいのが人間の常である。自分自身がそれほど努力していないくせに、なんだかイライラしてしまったりする。
おおかたの健常者は、たとえイライラしてもそれを口に出しては言わないだろうが、とにかくそんなことを思ってしまうのが普通の人間てものだ。いや、もちろんその場限りなら心から優しくしていられるが、深くつきあったり、この人が今後同僚や後輩になると思って見ていたりすれば、また違う。凡人なら本性が出てしまうというものだ。わたしも凡人だから分かる。

一方で、ハンディがある分、埋めようとするのが先進社会であり、法律である。
甘えを許す部分がたっぷりとられている。それでいいのだ。それでも足りないくらいなのだから。

――この話には結論がない。わたしにはつけられない。
なので、ここで終わることにする・・・・・・



●9年目:ハートの中心
Chapter 1 ハートの中心



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