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対等であること 05:プロとして、仕事として

ちょっと極端な話で、例にはならないかもしれないのだけれど、プロローグとして持ちだすことにする。
以前にあるグループインタビューを見る機会があって、参加者の一人が話していたことが忘れられないのだ。
自分が病院で出産したときの話で、「もうこっちはすっごく痛くて辛くて、必死になってるのに、担当医が夏休み取っちゃってて、いないの! 他の医者で対応されても、この担当医なら全部分かってくれてると思ってたから不安で不安で!もうすぐ生まれる患者がいるっていうのに、夏休みを取るなんて信じられない!」というような内容。
何が忘れられないかというと、「当然みんな同感よね?」という当たり前感。「ひどいと思うでしょ?」という一片の疑いもない感覚。

ほんのちょっぴり、思ったのだ。
まあでもさー、産科だったらそれこそ毎日何人も出産するわけだし、そのたびに真剣一途になってられないかもねー、と。
程度はもちろん雲泥の差なのだが、自分もクリーニング店時代に、日々何百と預かる1人1人のクリーニング物に対して、いちいち「××さまの大切なセーター、しみが落ちてよかった・・・!」と感動してはいられなかった。「××さんのワイシャツ、ちゃんとシワひとつなく仕上がってきたわ! うんうん」「××さんのスカート、ここの汚れが落ちなかったのね! なんて残念なの! 申し訳ないわ!」とかね。まさか。
かといって、「給料さえもらえればいい、客の品物なんてどーでもいい」と思っていたわけではない。

もちろんわたしたちは、「たまたま給料もらえるからやってるだけです」という顔はしない。そんな店、売上が落ちてしまうではないか。
「××さま、お預かりしていたこちらのセーターですが、しみは落ちました」と嬉しそうな笑顔で言う。
「このシミは焼き肉のたれで、あ、少し水も入っちゃってたと思うんです。たれのお皿にこぼしちゃったから。たれはしょうゆベースで、油も入っていて、りんごも原材料に入っていて――」と一生懸命説明しているお客さんに、「どーでもいーよ、どうせ落ちないよー」なんて、たとえ思っても見せないし。できれば思わないように努力する――そういうの、隠しても微妙に出るから。

お医者だって、病院の評判を気にして、「やれやれ」と思ったとしても顔に出さないとか、そういうことはあるだろう。
その意味では、グループインタビューの人の話に出てくる医者は、日本人の患者を相手にしながらずいぶん気を回さない人だなとは思う。

そういう感覚が、日本にはあると思う。
「医療や福祉に携わる人は、当然患者や支援相手のことを100%親身に考えていて、寝ても覚めても患者や支援相手のことを考えてる」とでもいうか。

アメリカドラマなんかだと、手術室でプライベートな会話や世間話などをしているのは、当たり前。
しかし大事なことは、素晴らしいテクニックを持っていることや、そのテクニックを充分発揮して見事なオペができること。そのおかげで助かる命がたくさんあること、治る患者がたくさんいること。
医者たちも、世間話をしたからといって、真剣でないわけではない。自分のテクニックには自信を持っているし、「絶対に成功させる!」と思っていたりする。
もちろん、患者によかれという気持ちもあるし、失敗したときはひどく落ち込む。
――でも世間話をしたから失敗したわけではないから、そこはくよくよ考えるポイントではないのだが。

とにかく、外科医として優秀なことが大切なのだ。
その優秀さを発揮して、最高のオペをしてくれることが大事なのだ。

今ではだいぶ、そういう考えもなくなってきたようだ。
わたしが子供の頃は教師は聖職のようなものだったが、今はそう思っている人は少ないだろう。
教師自身も「生徒のため!!!!」と寝ても覚めてもそればかり考えているような人はいないし、親のほうでも「教師は絶対」とは思っていない。

医者も弁護士も同様で、ドラマのような人ばかりではないと誰でもわかっている。

でもともすると、福祉は未だにそう思われているフシもある――ような気がする。

わたしは、もし「あなたにとってこの仕事は?」と問われたら、「仕事」と答えるだろう。
楽しいし、達成感や充実感もあるし、自信喪失したり、失敗したと落ち込む日もあるけれど、好きな仕事だ。
でも無給でボランティアとして同じ時間奉仕できるかといったら、それはできない。

働かないでも楽に暮らしていけるならやるかもしれないけど、今の経済状況で「給料がなくたったやります!」と毎日朝から晩までボランティアすることはできない。

わたしはやはり、仕事としてやっているのである。
品のない言い方をするなら、お給料のためにやっているのである。

今ほどあくせく働かなくてよくなったら、今ダブルワークに行っている時間にちょっとボランティアで教えるのもいいかも――とパソコンボランティアを探したこともあった。
そういう日が来たらやりたいかもしれない。もしスクールを辞めることになり、教える仕事が見つからなくて事務職にでもなったら、自分の生きがいのために隔週1回とかボランティアをしてもいい。

でも今は無理。
休日だって欲しいし。

それに、ボランティアでやるとなったら、今のようにはできないと思う。
つまりプロとして、プロのレベルでの仕事はできないのではないか、と。

スクールで働きながら、スクールでの仕事の糧になるかと思ってボランティアで自分の腕を磨く、というならできる。それは仕事のための修行だから。
それに見合うお給料をスクールがくれるなら、そのために頑張るだろう。
――時給800円です、ということになったら、ちょっとそこまでできないが。

わたしは自分のレベルを保つために、かなりドキドキだ。パソコンの世界は日進月歩だから、すぐに置いていかれてしまう。
誰もお金を出してくれない参考書を、自分への投資として買うことも多い。
その時間の報酬は出ないけれど、家などでレベルアップのために勉強したり、資料を作ったりもよくする。
なるべく最新の現場の状況を知りたいと考えている。あらゆる機会にできるだけ情報を得たいと思うし、得たことは覚えておく。

でもボランティアのためにそこまで自己投資するのは、できるかどうか分からない。
相手が感謝してくれて嬉しかったとか、自分なりに「役に立った」と満足感を感じるとか、お金以外の見返りがあればするだろう。が、お金以外の見返りは、容易にひとりよがりの自己満足に変わるので、注意が必要だ。

具体的に言えば、仕事で下手なことをしたら、自分に降りかかってくる可能性がある。
アンケートに「役に立たなかった」と書かれたり。
「あの先生、レベル低いな」と思われて、噂になったり。
スタッフに「あの人、ダメだな」と判断されたり。
そういうことが仕事量や収入に響くこともあり得る。

しかしわたしなど自分をきちんと律するタイプでもないので、ボランティアでもそれだけの緊張感を保てるか分からない。
「とても分かりやすかったですよ、ありがとう」と言ってくれたけど、それは本当なのかお世辞なのか――あまり考えずに「感謝された! 自分はこんなに役に立った!」と満足するだろう。
自分の知識レベルを保とうと努力するのも、絶対甘くなるだろう。多かれ少なかれ。
それでも「自分は経験があるから」と考えるだろう。

「役に立たない」と言われたとき、仕事だったら振り返って反省するだろう。
もし理不尽であっても、なぜ理不尽な評価を相手がしたのか、考えて改善したり、どうしようもないことは諦めたりするだろう。

でも仕事でなかったら、もう少し自分に甘くなるのじゃないかと思う。

お金ほどシビアな基準はない。

仕事として、お金をかけてするとき、わたしはプロだし、プロとしての心がまえで行う。
プロであるとの自負を持っている。

わたしは仕事として講師をしているとき、一番よい質を保っているのだと思う・・・・・・



●9年目:ハートの中心
Chapter 1 ハートの中心



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